千早街道は富田林寺内町の堺筋から進み、山中田坂をくだり石川を渡る。渡河する地点は、現在の金剛大橋の近辺と思われるが、くわしくは不明である。ついで山中田村を経て南大伴村に入る。ここに1地蔵尊の小祠がある。大伴地蔵尊と呼ばれているが、詳細はわからない。本道はつづいて河南町に入り、寛弘寺・神山・森屋などの諸村に及んでいて、沿道には2太神宮燈籠をはじめ、3地蔵尊の小祠が建てられている。二河辺部から水分の村落を経て、千早峠にいたり大和へ達する。
観心寺道(図32)は、石川の金剛大橋を渡り本道と離れ、西板持村に入る。西板持七丁目に4道標がある。四面に「東いせよしの」「西さ山堺文化十五年若連中」「南くわん心寺五条」「北ふしい寺」と刻まれている。ここは街道の分岐点で、各地への方向と道路の行き先を記している。すぐ南へ行ったところの道端に5小石標柱があるが、文字を見ることはできない。道を隔てて斜め向かいに6地蔵尊の小祠がある。なお西板持集落内には、西板持会館前に7太神宮夜燈がみられ、「文政十二己丑三月建立」と刻まれている。ここからやや東、板持派出所の前に8地蔵尊の小祠がある。その台座には「法界」と刻まれ、さらに「享保廿乙卯正月十五日」と銘文がある。また小祠の側に常夜燈があるが、これは9大峯山常夜燈で、「嘉永□(六)丑四月改建之」とあって大峯山山上講関係のものである。このほか大念寺の門前にも10地蔵尊小祠があり、そこから少し北へ一五〇メートルほど歩いた所にも11地蔵尊小祠がある。また佐備川に架かる高橋の東詰付近にも12地蔵尊小祠が見られるなど、西板持村内の石造文化財はまことによく残されているといえる。なお、地蔵尊小祠は東板持村にも見られるが、なかでも集落の南西に存在する13地蔵祠は、地蔵の台座が道標になっているもので、それには「右ハこんかうせん(金剛山)道、中ハのミち(野道)、左ハ上のたいし(上太子)いせ(伊勢)道」と刻まれている。これが昔からこの地点にあったものかどうかも含めて詳細は不明である。ほかにも東板持集落中心部に、14北脇地蔵尊と呼ばれる小祠がある。さて、西板持村に戻り、先述した道標の地点から観心寺道をさらに南下すると、民家の脇に15如意輪観音像を祭った小祠があり、そこからおよそ五〇メートルほど行った西板持の南の外れ近くにも16地蔵小祠がある。
さらに観心寺道を南下するとやがて佐備村に入る。まず下佐備の南の外れ近くに、17地蔵尊像がある。中佐備に入ると街道脇に18小祠があり地蔵尊二体が祭られている。その傍らには19宝篋印塔があるが、先端と一部分が欠けている。これは三十三度行者供養塔であり、「寛政十二年二月吉日」と読める。なおそこからやや南にも20地蔵尊小祠がある。また上佐備の街道脇にも21地蔵尊小祠がみられる。龍泉村に入ると、龍泉寺へ向かう坂道との分岐点に22龍泉地蔵尊がある。そこから坂を少しのぼった所にも龍泉地蔵尊とよばれる小祠があるが、こちらは本尊も含めてかなり最近になって建てられたものらしい。おそらく街道脇のものがほんらいの龍泉地蔵尊と思われる。甘南備村には23夏目地蔵尊とよばれる地蔵小祠があり、立派に修復された堂に安置されている。刻銘などは不明である。甘南備村をすぎると山間の道となり、錦部郡に入り観心寺へ向かっている。「石川・古市・安宿部三郡絵図」には、「観心寺越、甘南備村ヨリ錦部郡観心寺迄十八町」と記されている。