三日市宿は高野街道の一宿駅である。西高野街道は堺の大小路を起点とし、つぎの宿駅三日市まで約七里、三日市のつぎの紀見峠までが三里であった。主に高野山へ参拝する旅人が宿泊した旅宿であり、その繁栄ぶりは「河内名所図会」などにも記され有名である。天保一四年(一八四三)の上田村明細帳には「馬借所三日市村 馬次宿」と記されており(河内長野市竹鼻家文書)、人足二五人、馬二五匹の宿駅で、上田村がその三分の一を勤め、馬八匹・人足八人を用意した。幕末になるに従い、三日市村の家数減少による負担過重などにより、公定運賃の改訂を数回にわたり要求したり、近辺の村々から助人馬を求める要求がおこってきた、その一件につき略述したい。
安政三年(一八五六)五月、石原清一郎代官所石川郡板持・南大伴・北大伴以下一一カ村、多羅尾久右衛門代官所富田林村以下六カ村、大久保加賀守支配南別井村以下三カ村、石川槙之助支配畑・葉室の両村、石原清一郎古市郡古市村以下七カ村の村々役人一同は、北大伴村庄屋西村喜六郎、喜志村庄屋友右衛門、太子村庄屋勘兵衛、新堂村庄屋四郎治、畑村庄屋元治郎、一須賀村庄屋源左衛門らにつぎのような願書を提出している。それは河州河内郡松原宿と錦部郡三日市宿との両方の宿駅で、「百姓強牛遣ひ」の者に宿役を勤めるよう新規に申しかけたが、村々一同は難渋困窮のため宿役の取消しを求め出訴したい。多人数で出訴すると差障りがあるので願惣代六人を頼み、各村村役人の勤務に際し日数に応じ手当てを与えるというのであった(北大伴西村家文書)。
その結果はあらためて「宿場ゟ百姓持牛新規宿役相勤候儀御差止願」となり、さきに出願の村々たる石川郡御料私領入組二二カ村、古市郡御料私領七カ村の合計二九カ村が、願惣代として前記の六人を代表とし、松原宿役人と三日市宿役人を相手に訴願している。その内容はつぎのとおりである。河州松原・三日市両宿の宿役人らが村々に来て、「百姓強牛遣ひ」の者に宿役を相勤めるよう新規に申しかけた。困難である旨を伝え断ると、百姓の野仕事の妨害をする始末である。百姓の持牛は農耕上必要で、その上、年貢の津出しや当地物産の売却、肥料購入など山寄りの村々でも必須のものである。両宿の御用人馬継立のことは以前から実施しているが、村々の牛稼も重要であり、両宿に対しては村々から御伝馬宿入用を毎年上納している。したがって百姓持牛で宿役を勤務するなどは、不当な課役である。最近の二月下旬ごろ、石川郡太子村へ宿役人が来たり、牛遣い者を差し押さえたこともあった。これは牛飼百姓を圧迫し、百姓の成業にも差し支える状況である。宿駅への出銀や加勢のことで、さらに困窮がすすむことと嘆かわしく思う。相手の宿役人を召し出し、新規のことを中止してもらいたいと申し出た(北大伴西村家文書)。
その後、安政四年九月、錦部郡市村の栄助は、六人の郡中村々の惣代に、以下のように済口証文を取り交わしている。この一件は、すでに天保年間から三日市宿駅に、宿駅で用立ての牛馬の補助銀として、毎年四三〇匁ずつ郡中から二〇カ年間支給してきた。最近になり宿駅三日市村の困窮のため、助成金を増額するよう申し立てがあり、双方で相談の結果、和済した。その内容は①当年から五カ年間四三〇匁ずつ、宿駅補助として給付する。②郡中諸荷物は荷主の勝手次第、広く流通してよい。③三日市宿駅で荷主の都合で継立が便利のときは、一駄三二匁ずつで、世話料として相渡す。④継立しなくてよいときは、継立せず、そのままで通行すること。いずれにせよ、何事も補助銀の額の内で相済むようにしたいので、今後は牛馬荷物につき申立てをしないという約束で、相互の対談をすませ、後日のため証文を取り交わしたのである(彼方中野家文書「用書留」)。