枚方宿などへの助郷一件

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幕末期から明治初期にかけての多事多難な政局の展開は、将軍を始めとする幕府要路者の上洛・江戸帰還や、上使・朝臣らの江戸参府などにより、東海道とそれに接続する京街道の諸往来は、頗る活況を呈した。京街道の河内枚方宿への助郷は宿駅周辺の二八カ村で勤めてきたが、人馬が不足し、文久元年(一八六一)から加助郷願を出し、助郷村の対象となる村々を拡大するにいたった。それ以来、富田林市域を含め、南河内石川・錦部両郡の村々も該当することになった(『枚方市史』三)。

 慶応二年(一八六六)正月、石川・錦部両郡のうち、幕府代官領西代・甲田・伏山新田三カ村、旗本小出領錦部郡板持・野の二カ村、三好領小山田村、甲斐庄領高向・喜多の二カ村、本多伊予守領天見・流谷・清水・鬼住・寺元・伏見堂・甲田・新家・原・長野の諸村、本多主膳正領分市・古野・野・惣作・上原・小山田・下里・加賀田・上岩瀬・下岩瀬・石仏・片添・喜多の諸村は、村々惣代として小堀数馬代官領甲田村庄屋八左衛門、本多伊予守領日野村庄屋某、本多主膳正領市村庄屋長兵衛の三人をえらび、役所に訴願した。以上の村々はすでに元治元年(一八六四)から翌慶応元年一二月まで、将軍の上洛と江戸帰還、長州戦争の出陣に際して尾州藩徳川慶勝の従軍、通行などで、枚方宿などの助郷を勤めた。ところが多羅尾信楽役所より、東海道庄野・石薬師両宿駅の当分の助郷役を仰せ付けられた。南河内から約四〇里も隔たり非常に遠隔の所なので、途中の諸経費も必要なので勤めがたい。そこで錦部郡の向野村以下の一九カ村は、このとき、助郷から外れ「除村」であるので錦部郡の又助郷を引き請けてほしいということで、多羅尾役所に申し上げておいた。ところで除村の内三カ村は枚方宿、八カ村は草津宿、八カ村は三日市宿へそれぞれ助郷村を仰せ付けられたので、庄野・石薬師両宿の助郷を引き受けてはもらえない状況である。この際、枚方宿以下三宿駅の助郷は、錦部郡以外の手あきの他郡や他国で担当してもらうようお願いしたい、というのであった。また、草津宿問屋田中久蔵もこれらの村々が、庄野・石薬師両宿の助郷を負担することは困難と思われるので、暫くその解決を延期してほしいと申し上げている。

 二月に入り、枚方宿を通過する将軍・幕臣・諸大名・公家らの通行が、一段と増大するなかで、枚方宿問屋役人から応援のため、摂津河内の大久保領の飛地の村々摂津東成郡国分村を中心とする村々に、援助を求めているひとこまもあった。

 同年三月に再度庄野・石薬師両宿助郷免除の訴願があった。両宿助郷惣代甲田村庄屋八右衛門・市村庄屋長兵衛、日野村庄屋武助・枚方宿助郷惣代彼方村庄屋又右衛門・石薬師惣代高向村年寄松右衛門らは、両郡の小堀代官領四カ村、旗本小出家領四カ村、旗本甲斐庄家領三カ村、本多主膳正領一二カ村、本多伊予守領一三カ村の村々が、枚方宿からかなり遠い南河内の村々でありながら、枚方宿加助郷を命ぜられ勤めていた。ところが、前年一二月に多羅尾代官所から庄野・石薬師両宿の当分助郷を命ぜられ、一たん免除されたが、本年二月この両宿加助郷勤務を命ぜられ、四〇里以上の遠隔地のため非常に困難である。強行すると村全体が亡所になるので、かさねて強く免除を申し出た一件があった。

 その後の経過は不明であるが、五月に枚方宿助郷惣代から同宿助郷の四・五月両月の具体的な額の書上があり、彼方村役人に差し出されている。総入用高は銀一一四貫一七四匁余で、助郷村高六万四五一三石に割り当てると、一〇〇石につき銀一七六匁八分八厘と計上されている(表105)。

表105 枚方宿慶応2年(1866)4・5両月分助郷入用高
項目 助郷銀高 備考
貫 匁分厘  
助郷人足入用 162.836.2.5(A) 人足6855.75人分
通行ニ付諸入用 15.959.6.3(B)
総入用(A)+(B) 118.795.8.8  
諸家様御通行
継立人足伴駄賃引 4.621.2.2  
差引入用高 114.174.6.6  

注)「枚方宿加助郷掛り一件」彼方中野家文書による。

 しかし、九月一四日になると、石薬師宿問屋彦五郎、年寄平三郎ほか同宿助郷惣代から村々に対し、長州戦争への幕軍の進発中であり、日割通行中で人馬継立の予定を聞いているので、村々に至急廻達するから請印して返却してほしい。本月七日に大坂を出発したと申し触れ、人馬差し出しの用意を整えておくことを強調している。

 このようなたび重なる助郷の賦課に対し、現場の村々は廻状の請印拒否や、助郷不勤の村方も生じているらしく、表面的な反対訴願状のほか業務放棄の村方があり、かなり実質的に抵抗があった。道中奉行から不勤の村々に「埋勤」させることを強調したり、請印拒否を制止させる触状が同年一一月に廻達されている(彼方中野家文書「枚方宿加助掛り一件」、彼方土井家文書「乍恐以書付奉歎訴候(加助郷被仰付こと)」)。明治期に入っても明治元・二・三年などと彼方村らは、大津宿・草津宿への助郷賦課金の負担が割当てられている。助郷の過重な課役から解放されるのは、維新政権成立後の明治五年(一七八二)一月からであった。