石川と剣先船

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河内を流れる大和川は、宝永元年(一七〇四)に「川違え」があって現在の流路につけ替えられ、柏原辺りから西進して、堺の北で大阪湾へと注ぐことになった。それまでは、錦部・石川両郡から北流してきた石川が合流し、多くの川筋の支流に分かれ西北の方向に進み、大坂城の東で淀川と合流していた。近世前期からこの大和川・石川の川筋を中心に、剣先船などの川船が往航していた。剣先船には、古剣先船(古船)、新剣先船(新船)、在郷剣先船(在船)、井路川剣先船(井路川船)の四種があり、古・新両船は大和川とその支流で手広く航行し、賃積み稼ぎを営み、新大和川開通後はその活動範囲を旧大和川から新大和川にと転換した。在郷剣先船と井路川船とは、年貢米や村方要用荷物の輸送と賃積みに従事した。明和・安永期ごろから「上り株」となり営業不振となり、一八世紀後半に河川交通に活躍するのは新・古剣先船のみであったといわれている(『布施市史』二)。

 古剣先船は、一説によれば、正保三年(一六四六)に二一一艘が認められ、新剣先船の方は延宝三年(一六七五)には一〇〇艘が認可された。元禄五年(一六九二)「河内国絵図」によると、古市郡古市村には「剣先船八艘」、石川郡石川京橋[  ]道方富田林迄八里には「剣先船十八艘」と記されている(大阪市立博物館第三五回特別展図録『大阪の古絵図―摂河泉のあゆみ―』)。市域から京橋まで石川・大和川を剣先船が運航されていた。石川とあるのは、恐らく、喜志川面村を含めた石川筋のいくつかの村々をさすのであろう。古剣先船は幕府の老中・城代・定番・奉行巡見のための召船と、その他の御用・所々見分役人の乗船御用・代官掛りの国役樋および川除竹木の積届け御用・大坂町奉行所普請方の御用などの役儀があった。その見返りとして、一般に加子二人、その扶持米二升が下付された。のち一艘につき年八匁五分の運上銀を納入したという(同上)。こうした川船は年貢米の輸送以外につぎのような諸荷物を運送した。在地からは河内・大和産出の諸物産や竹木などを運び、大坂市中からは肥料、木材、その他を運搬していた。その詳細は、安政三年(一八五六)の史料によると、喜志村の状況は、表106のとおりであった。

表106 剣先船運送物産〔安政3年(1856)、喜志村〕
積下荷物 積登荷物
物産(需要地) 積出地 物産(需要地) 積出地
線香樽丸(大坂・堺) 材木・葛根・竹 (石川郡) 千早・東坂・吉年・森屋・甘南備 大豆(千早)米・肥・荒物類(富田林・大ケ塚・新堂) 大坂・堺
(錦部郡) 石見川・小深・大井・鳩原・鬼住・寺元
田芋・葛根 柑木・竹類(大坂など) (石川郡) 水分・川野辺・芹生谷・二河原部・桐山・守屋・中村・白木・河内・弘川・加納・寺田・大ケ塚・山城・大伴 綿・牛房荷物(丹南郡一帯・堺) 和州八木・高田等在方
木綿・酒・油 材木・綿花 (石川郡) 富田林・大ケ塚・中 米・塩・肥・荒物(大ケ塚・山田・和州) 泉州一帯
(錦部郡) 錦郡・三日市・長野
幕領御城米 太子・山城・両大伴・寛弘寺・神山・芹生谷・川野辺・森屋・板持・毛人谷・新堂・中野・新家・甘南備・喜志

注)「喜志村問屋九郎株借稼一件」(安政3年)喜志谷家文書より作成。