喜志村は石川を遡行する剣先船の終着地であり、紀州や高野山参詣の往還たる東高野街道との交差点である。幕末期で村が川面(かわづら)・平(ひら)・宮・桜井・大深(おおぶけ)の五つのカイトに分かれ、村高全体で一八二六・六石の大村であった。喜志村のうち石川に沿う村落が川面村であり、村高二二〇石余、家数七〇軒のうち三〇軒は高持、四〇軒は無高(安政四年)であり「御田地小キ村柄」といわれ、喜志村のほかのカイトとはその様相が相違していた(喜志山本家文書)。船問屋が二軒あり、明和六年(一七六九)・文政一一年(一八二八)・天保五年(一八三四)および明治二年(一八六九)と、次郎兵衛、九郎兵衛の二人の名が記されている(『富田林市史研究紀要』四、喜志谷家文書「喜志村様子明細帳」(文政一一・天保五年))。岸浜といわれる剣先船の着岸場所は、諸商人が入りこみ、相互に商売や稼ぎを営んでいた。対岸へは川面の渡しがあり、太子村・春日村へも相通ずる交通上の要衝であった。諸物産が問屋の手により荷揚げされ、住民は農閑期の副業として、荷物積卸の労役に従事したとされている(南河内郡東部教育会編『郷土史の研究』)。また、貝原益軒の『南遊紀行』には、近世前期の喜志川面村の状況につき、その賑いを述べていることは著名である。そして、河内大ケ塚村より半里西に川面村があるが、大坂まで舟路六里で石川から大和川を経て京橋に達する。
石川の川ばたには人家がなく、舟着場から四~五町ほど離れ、川面村が所在すると、現地の地理を説明している。剣先船は喜志村までしか遡行せず、年貢米などは各村落から喜志村川岸まで農民の負担で運ばれた。しかし、石川流域をより上流まで航行した川船もあった。石川は享保三年(一七一八)七月から堺奉行が、大坂町奉行と協議しながら、新大和川と石川を管理支配し、両河川の川筋の巡見を実施するという任務をもった。そこで富田林村では天保一三年(一八四二)、石川筋支配の堺奉行に願い出て、上流を遡行する通船四艘を許可されたといわれる(近世Ⅰの三)。最近、富田林市の金剛大橋の近辺で、船着場らしい石組が発見されたというが、それについては後考にまちたい。
石川への架橋の問題につきふれておこう。天保八年の「石川・古市・安宿部三郡絵図」をみると、富田林村のところに「川幅七拾間板橋」という添書があり、石川の川幅七〇間に板橋が架設されていたことが理解される。橋を渡り対岸の山中田村へとつながるものであった。上流の錦部郡錦郡村と、石川をはさみ対岸の彼方村との間にも板橋があった。天保九年六月に、錦郡村の甲斐庄知行所年寄七左衛門と、北条遠江守領分年寄茂右衛門の双方から、堺奉行所川方役所に願書が提出された。それは錦郡村から村岸の彼方村に渡る板橋が、長さ六〇間、幅一尺五寸の規模で、幅が狭いため老人、子供の通行には困難で、過まって滑り落ちる危険も多い。今回かけ替えて同じ六〇間の長さで幅一尺五寸板を二枚の幅に拡大して架橋したい。双方とも橋詰の所は境界ではないので、差支えがないと思う。もちろん、石川の出水のときは以上の板橋を取払うことで了解を得ていると申し述べている。彼方村からも同様な願書があり、双方とも請書を付して願い出ている。以上、堺奉行所の川方役所へ提出して聞き届けてほしいということであった(彼方中野家文書錦郡大松家文書)。富田林村よりもさらに上流の所に、石川を渡り村々をつなぐ橋が存在していたことをものがたる。