既述したように喜志村船問屋として次郎兵衛と九郎兵衛との二組があり、安政三年(一八五六)ごろは九郎兵衛組の九一郎と、清右衛門の二人であった。ところが九一郎株の名義で宮村の太右衛門が荷継問屋の借稼ぎをして、三日市宿の馬借たちの手先となり営業したので、荷継方の取締のことで清右衛門の忰岩吉から、支配領主へ願い出た一件があった。安政三年九月二二日のことで、訴願の内容はつぎの通りであった。清右衛門は百姓の農閑稼ぎとして、喜志川面村の荷継屋渡世を営んでいた。三日市村宿駅の馬借たちが経営が困難となり、その助勢を大坂町奉行から命ぜられていた。ところが、九一郎問屋株を借り受けている宮村の太右衛門が、清右衛門に話さず無断で、三日市村宿の馬借と連絡をとり、一カ年間銀二三〇匁を差し出すと勝手に取り極め、清右衛門に営業を取りやめるよう申し出、自己の手で営業を独占しようとした。村役人に申し出ても事情が全くわからず、どうか太右衛門と加担の村役人を召喚し、清右衛門の渡世が差し支えないよう聞き届けてほしいという内容であった。また、同年一〇月、喜志村弥右衛門ほか五人と庄屋源右衛門・林蔵・喜左衛門・友右衛門の四人と、年寄金左衛門らは、九一郎問屋跡役で借請人太右衛門が庄屋五兵衛の加印した書類をもち、勝手に宿駅関係の諸荷物の運送を独占し利益を取るので、村方百姓の生活上大きな支障となった。そこで、庄屋五兵衛と百姓太右衛門の出頭を命じ村方全体が難渋せぬよう、吟味取り調べしてほしいと訴願をなしている。
以上に対して同年一〇月二〇日に、太右衛門側は太右衛門が病気で出頭困難のため、代人長兵衛が出頭する予定の旨申し出ており、一〇月二五日には、九一郎が幼少のために九郎兵衛と庄屋友右衛門が、安政元年正月から、文久元年(一八六一)まで、まる八カ年間、九一郎株を証文で借り受け、三日市宿馬借人の手先となり、また、九郎兵衛跡相続人太右衛門と三日市村への書類に書き出している。九郎兵衛の跡式相続人でなく、九一郎から太右衛門へ貸し渡されたにすぎないと、申し立てているのである。この間、喜志村五株庄屋として、惣代庄屋の五兵衛と友右衛門は、喜志村は百姓が五株に分かれており、村役人も株ごとに選任されている。川面株問屋二軒の取扱いは、喜志村一体諸役人からも意見されるのは当然であるが、所属の株限りで進退を決定する慣行であったと申し述べ、川面株問屋清右衛門および九一郎は、年季を定め、宮株太右衛門へ貸し渡していることであり、五株村役人らへ相談しても同様のことであると、自己の主張を強調している。
つづいて同年一〇月二八日に、太右衛門の忰たる長兵衛、庄屋五兵衛、同友右衛門の三人は、領主の信楽役所あて、以下のような申し開きをなし、太右衛門一件の事情を釈明している。①宮村株太右衛門が、川面株九一郎の身上不如意のため、川面株九一郎名義の問屋株を同じ川面村の勘兵衛を請人として、安政元~元治元年(一八五四~六四)間の年季を限り、出稼ぎを願った始末である。②太右衛門の三日市宿駅出稼については、同宿荷継を請け負って剣先船荷物と牛馬荷物請払いをしたいと、三日市宿の了承のもと、一カ年に二回にわたり銀二二〇匁を納入するので、川面株につき新規に請人をたて、宮株庄屋五兵衛の奥印の証札で、三日市宿に出入するに至ったと、その経緯を述べている。③太右衛門が川面株の問屋出稼について、居村村役人の奥印が必要であるのに、株違いの宮村村役人の奥印を貰った理由や、問屋稼借受人は九一郎であるにかかわらず、三日市宿へ提出の証札には九郎兵衛跡当時相続人と記したことなどは、全く、太右衛門自身の心得違いであったと説明している。これには、太右衛門自身が三日市宿から、突然、荷継営業を中止することを申請け、いささか当惑し九一郎へ聞合すべきところを、全く心得違いであり自己の過失であったと申し開きしている。
以上で煩をいとわず、一件の経過を述べてきた。一〇月二八日には、太右衛門忰長兵衛、庄屋五兵衛、友右衛門の三人は、今月(十月)一一日に検見が終了し年貢の納期も切迫している状況のため、来月一〇日まで、一件の処理を延引してほしいと役所に申し出たが、その結果は不明である(喜志谷家文書「喜志村問屋九郎兵衛跡九一郎清右衛門弐人之所九一郎株宮太右衛門借稼致三日市宿馬借手先人ニ相成候付荷継方取締候付清右衛門ゟ御役所江願出書類并御礼書付之扣」(安政三年))。