石川・大和川には竹筏の往来があったことを述べてみたい。現在までのところ、在地では、竹筏流しに関する史料はほとんど確認されていないが、大阪市史編纂所の葛井家文書の内容紹介をかねて、『大坂の歴史』二三号に、野高宏之が「近世における大和川・石川流域の竹筏仲間」として詳述している。同氏の論稿によりながらその一端につき述べておく。
竹材は近世においては、建築や普請などの工事の重要な用材であり、酒造業、絞油業との関連で竹材が求められた。南河内支配領主の一人でもあった近江膳所藩では、慶安四年(一六五一)五月、藩主本多俊次が下付した「定書二十九カ条」の内に(承応二年九月の定書も同じ)、村中の賑わいや防風のためにもよいので、田畑になり難い土地に竹木を植えさせ、家屋の修理や破損に際し使用させ、たとえ親子兄弟のためであっても勝手無断に使用させず、領主本多氏の用材に充て、理由のない伐採は禁止する規定がある(近世Ⅲの一「膳所藩領村方定書」)。竹材の重要性を裏書きするものであろう。『河内志』には石川郡の特産として、苦(ま)竹の名がある。竹材を筏に組み石川を流すことが何時ごろから始まったかは、明らかでない。元禄九年(一六九六)に石川郡東坂村では、同村の林叢三カ所の竹材を京都の禁裏御用として伐り、筏に組んで大友川より大坂表へ下しその費用は領主より下付されたと記され(「河内国石川郡東坂村差出帳」(『千早赤坂村誌』資料編))、『河南町誌』にも、ほぼ同様の史料とともに禁裏御用の幟が東坂村に残されていることを述べている。また、享保四年ごろの東坂村について、「一他国へ出し商人ハ竹ヲ買筏にくみ、川下し仕居候者廿人斗御座候、其外市立仕者并問屋無御座候」(同上史料)とある。竹材が求められ、山方の村々がその供給地となり竹材を切り出し、大坂・堺方面へ運ばれたが、その時、竹筏士が山で伐出した竹を川原で筏に組み下流へ流し販売することが行われ、東坂村では二〇人も存在したことを伝える。同時に、薮主から竹を買い取って地元の小売竹屋に売り捌き、輪竹などに加工し、地元の樽屋・傘屋に販売したといわれる。竹筏士は石川・大和川に竹筏を乗り流す一方で、当地域における竹材の仲買として機能したのである。やがて、大和川下流の安立町におかれた竹筏問屋を通して、大坂・堺市中といった大消費地の竹問屋との取引が行われる。寛政年間ごろから安立町の竹屋作兵衛が、大和川・石川両筋を含めた全域の惣代として活躍する。
つぎに竹筏士の出身の村落・名前・人数などにつき、その推移を概観する。竹筏士は錦部・石川両郡の比較的山手の村々の出身者であり、大和方面の村落出身者も多かった。他面商人でもあった筏士は、仲間を組織したがこれについては、あとでふれる。表107は富田林市域の村々に限定して、その名前・出身村落・人数・組分けにつき、近世後半期を中心に一覧した。
竹筏士の人数や出身の村々も、一八世紀前半より一九世紀前半にかけ漸減し、幕末期には、石川に沿ったいくつかの村落に限られる。すなわち、彼方・北大伴・富田林・喜志の諸村落がそれで、喜志村は一八世紀の前半すでに三人がおり、一九世紀に入り、二人、さらに一人と漸減する。彼方村も一九世紀初めから一人から二人と増減はあるがみられる。富田林村の幕末期の一人は別井屋吉兵衛であり、彼は筏士仲間の有力者で、幕末三人惣代の一人であった。北大伴村の嘉市も筏士仲間に加入するが、この二人の加入は大きな意味をもったとされる。それは、奥地の鬼住村などの竹材を三日市村から富田林村まで、また、小吹・東坂両村周辺の竹を中村から北大伴村で、それぞれ筏としてまとめ、石川などに流した過程のなかで二カ村の仲間加入が実現したという(野高宏之前掲論文)。
郡 | 村名 | 組 | 宝永8(1711) | 文化13(1816) | 天保12(1841) | 嘉永4(1851) | 水系 | ||||
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錦部 | 錦郡 | 錦 | 九郎兵衛 | 2 | 0 | 0 | 0 | 石川 | |||
権次郎 | |||||||||||
彼方 | 0 | 庄助 | 1 | 久左衛門 | 2 | 次兵衛 | 1 | 石川 | |||
次兵衛 | |||||||||||
廿山 | 錦 | 孫市 | 1 | 0 | 0 | 0 | 石川 | ||||
板持 | 錦 | 嘉兵衛 | 1 | 宇八 | 1 | 0 | 0 | 石川~佐備川 | |||
新家 | 中 | 宇兵衛 | 1 | 0 | 0 | 0 | 石川 | ||||
石川 | 龍泉 | 東 | 忠右衛門 | 3 | 直七 | 1 | 0 | 0 | 佐備川 | ||
権右衛門 | |||||||||||
平兵衛 | |||||||||||
佐備 | 0 | 清右衛門 | 1 | 0 | 0 | 佐備川 | |||||
甘南備 | 中 | 太郎兵衛 | 与次右衛門 | 3 | 0 | 0 | 佐備川 | ||||
治兵衛 | 2 | 清七 | |||||||||
庄兵衛 | |||||||||||
北大伴 | 0 | 0 | 0 | 嘉市 | 1 | 石川~千早川 | |||||
富田林 | 0 | 0 | 0 | 別井屋吉兵衛 | 1 | 石川 | |||||
嘉志 | 中 | 甚右衛門 | 3 | 次郎右衛門 | 次郎右衛門 | 次郎右衛門 | 1 | 石川 | |||
五郎兵衛 | 儀助 | 2 | 儀助 | 2 | |||||||
九郎兵衛 | |||||||||||
計 | 12 | 9 | 4 | 4 | |||||||
(竹筏士総計) | (144) | (58) | (30) | (20) |
注)野高宏之「近世における大和川・石川流域の竹筏仲間」(『大阪の歴史』23)より作成。
宝永八年(一七一一)の史料には、竹筏士の各組の名前とともに筏惣組中定として、定書が記されている。その内容は、①竹筏士らが禁裏御用として、去る辰年(元禄一三年か)、石川郡東坂村から大坂までの竹筏流しを実施して以来、名誉ある由緒を強調する。②元禄九年の大坂船仲間から筏流しの停止要求のこと。③筏の長さを今後は短くし、筏の組立に際し大竹は三枚、小竹は四~五枚を限度とする。④宝永三年九月、新大和川の遠里小野橋へ竹筏が突き当たり、遠里小野村と紛議があったが、竹筏銀の支払いで和解したこと。⑤川船中の船頭から理不尽な申し出でがあり、訴願のこと。⑥宝永六年、堺戎島・大和橋両方で筏の盗難一件があり、訴願の結果、盗人は牢獄刑、買い手は手錠刑として処分のこと。⑦組中の入用銀は、すべて惣中へ割賦する。⑧薮の売買に値段の決定後は、売買手双方への妨害を禁止する。違反者は除名のこと(大阪市史編纂所蔵葛井家文書「筏士人名帳」(宝永八年))、以上の申し合せを取り極めるが、他者との紛議の後始末に関する条項が多く、組合の掟書としては、必ずしも完備されていない。
その後、一八世紀を通じて仲間組織がしだいに整備されたらしい。宝永八年のときは四つの組であったが、惣代や年行司などの役職はなく、天明期から寛政期にかけ竹屋作兵衛が惣代の名称を名乗り、奥地の石川郡吉年村・錦部郡三日市村などにも惣代がおかれ、その後の動向の中で竹屋作兵衛は一人惣代という地位を手に入れたとされている。仲間の組織はその構成員が竹筏株の所有者に限られ、正月や彼岸のとき戎講などの会合で、仲間組織の運営をはかった。なお、竹筏株は村内以外に、他村居住者、第三者にも譲られた。名前替、名跡替、休株、印形替などに際し堺奉行への届出承認が必要で、その際に堺奉行川方与力、同心、用達などの諸役人や総代、年行司など世話人に諸経費を支払った。たとえば、文化三年八月、三名が親から名跡を譲りうけた際、堺奉行の川方与力、川方同心への礼金や用達紀伊国屋十助へ筆耕料や茶代、惣代作兵衛、山方年中行司の印代などをあわせて、一人当たり合計一四匁二分の諸経費であった。以上のうち二匁二分は筏士仲間から補助をうけ、結局、一二匁ずつの負担であった(葛井家文書「石川筋・大和川筋竹筏士名前替願書之控」(文化三年)、野高宏之前掲論文)。
竹筏流しは、当然、石川や大和川を往来する剣先船との論争をひきおこした。元禄九年(一六九六)に始まり、正徳二年(一七一二)・享保九年(一七二四)・寛政元年(一七八九)、同二年・同三年と、訴訟ざたとなった。市域に関係する村落は含まれなかったが、寛政三年一〇月、剣先船問屋大和屋仁兵衛、竹筏士惣代竹屋作兵衛らの曖人の仲裁で双方の和解書ができた。その内容は、イ石川筋ではどこでも筏を組み立ててよい。石川・大和川筋を竹筏で下ってもよい。ロ峠村より下流の大和川筋では、九月一一日より翌年五月まで、竹を剣先船に積み込むこととする。ハ筏一乗に銀二分五厘ずつ、川銀(竹筏小廻銀)として剣先船側に渡すこと。ただし一年間の筏の総量は年により違うので、一カ年の懸ケ銀を四三〇匁と定め、この懸ケ銀を川銀として毎年四月晦日・一二月晦日の二回に分けて、筏士惣代作兵衛から剣先船組頭へ納入する。といった内容であった。そして剣先船側が問題とするのは、浜の利用(問屋浜で筏を組み立てる)で、川筋の利用ではなかった。
その後は天保改革の株仲間解放で、仲間以外の竹商売や竹筏流しとの関係が生まれ、それらの調整や町方の竹問屋・仲買人との関係も生じた。株仲間再興後も素人の筏流しの問題があり、竹筏士一同は素人らの筏流し一件につき惣代と年行司に委任し、規定が作成されることになったらしい。その結果として、素人筏との区別のため、惣代から荷主および乗子に焼印目印札を一枚ずつ所持させ、筏士仲間は、出水などで流れ出た筏をかくさず届けることになった。それによって、筏士仲間が竹筏出しを独占するが、小売竹屋が竹職人を連れ竹を直買して輪竹をひかせる者が現れ、筏士の内でも山中で輪竹をひき、直売する者があったので、双方とも山方に出向き直買することを禁止された(野高宏之前掲論文)。