近世後期、摂河泉地域における民衆運動の一形態としての国訴については、多くの研究者から注目され、論議されていることは周知の事実である。国訴は文字どおりその形態が、一〇〇〇カ村を超える村落の結集であり、終始一貫して合法的な訴願運動として展開したこと、また、その要求は経済的な方面を中心とし、領主による貢租収取を前提として、農産物などの高価格による販売や、逆に肥料などの低価格購入の実現にあったなどと結論づけられている。そして最近にあっては、一〇〇〇カ村以上にもわたる広域的な訴願運動の担い手と、村落結合の契機などにつき興味深い考察がなされている。それは、在郷商人層などに代わって村役人層が国訴の担い手として、重要な役割を果たしたことが論証されている。幕領組合村などの村落連合などの研究から、郡中寄合などの組織を通して、郡中惣代制が重要な契機として機能しているとして、進んで村を起点として「頼み証文」などを媒介として、村役人相互間に積み上げられた委任関係に注目して、近代の代議制の先行形態であるとするなど、国訴の研究は新しい高揚期を迎えているといえる(津田秀夫『近世民衆運動の研究』、藪田貫『国訴と百姓一揆の研究』)。
富田林市域では国訴についてのまとまった史料には、現在までのところ、接していない。周辺の地域社会の史料などから、本市域と関連のあるいくつかの国訴につき、前述した諸点に留意しながら、その展開を概観してみよう。