寛政六年(一七九四)五月になり、摂津・河内六五〇カ村の農民たちは、大坂町奉行に対し、次のような訴願状を差し出した。その内容は、最近になり肥物類の価格が特別に高値である。これは諸国の浦々が不漁で、肥魚類の漁獲が少なく、肥類が格別に高値であるという。そして菜種油粕は一〇玉が四〇貫目と決まっているのに、最近では目方が不足で、交ぜ物をしており、肥料としての効目が薄く作物の出来具合も悪い。また、焼酎粕も一駄=四〇貫目であるのに、その風袋も重く、中味が不足しており、土砂を混ぜて正味の目方が減少する。役所の方からどうか、不正の粕類の目方を増加し、風袋の作り方や買占めなどについて、指導してほしい。摂河の村々の農民たちが農業に精励する励みになるから、と結んでいる。差出人として八人にわたる摂河の村々庄屋層が連名しているが、鈴木新吉代官所河州石川郡新堂村の庄屋庄左衛門の名前がみられる。彼らは翌六月、覚書をつくり、それには、新堂村庄屋庄左衛門を含め、四四人の摂河村々の庄屋が連ねている。このたび惣代百姓が五~六人ずつ、大坂谷町の亀屋喜兵衛方へ集まり粕類売捌のことで不正なきよう取締り、干鰯取引のことも靭地区の近辺を見廻り、不正を摘発・差押えを実行する。摂河村々の百姓へ、不正な肥物類の買取がないかどうか、よく監視し、危ないときは惣代から申し出る。惣代の勤務につき、入用諸経費は摂河の出願の村々に割賦すること。入用諸費は一カ年に二回、二月二〇日と八月二〇日に、立合って勘定を済ますことなどを申し定めている(『松原市史』一)。