幕府は、寛保年間ごろから、油値段の高騰により諸国に菜種の栽培を奨励し、また灯油を統制してその流通を円滑化ならしむるため、菜種・綿実を大坂市場へ集中させるため、重ねてその趣旨を強調し、明和三年(一七六六)三月にも宝暦九年(一七五九)の触書の趣旨を、再三にわたって徹底させようとはかっている(『大阪編年史』一〇)。
さらに明和七年には、幕府により油方仕法の改正がみられた。それは、大坂市中の油問屋や在方の絞り油稼ぎの要望をとり入れ、摂・河・泉の村々における株立てを認可したが、在方油稼屋の絞り草・綿実などの原料仕入れや、その売先の範囲は一国または限られた郡内に固定される結果を招いた。ただ大坂市中の絞油問屋だけが、その原料を自由に買い入れることができ、もっとも独占権を持つにいたったとされる(小林茂『近世農村経済史の研究』)。その後寛政九年(一七九七)四月、幕府は絞り油屋に対して菜種などを百姓から直買することを命じ、在々絞り油屋の油直小売を禁止したので、生産者百姓らはもよりの在方絞り油屋からの、日用油の購入が不可能になった。翌一〇年三月からも、毎年、村内の菜種収穫高とその売先を報告させ、百姓の種物の脇売りや質入れを確実に取り締まり、直売りを励行させようとしている。このような情勢に対して、百姓らは菜種の手広売買の要求とともに、油直小売の要求をも強く主張してくる。
文化二年(一八〇五)八月、狭山藩北条氏領丹南・丹北・錦部三郡二四カ村の村々は、菜種・綿実売捌方手広願を訴えている。市域の村々には加太新田・廿山・錦郡・同新田・彼方・嬉の諸村が参加し、嬉村庄屋又兵衛のほか、郡戸村庄屋元右衛門・西我堂村庄屋作左衛門がそれぞれ惣代として、名前があげられている。その内容は、①百姓方から売出す種物などの値段と、百姓らが買い入れの油粕値段とは格段の相違あり、油値段が高値である。②油屋たちは自分の利益だけを考え、勝手な値段で取引する。③百姓は作った菜種を引当にして、稲綿作の肥代銀を借り入れるが、売捌方が手狭になると、肥料の購入・仕込みがおくれ、年貢収納に影響するので、困窮がはなはだしいと述べている(『河内長野市史』六)。
さらに同じころ、秋元氏山形藩領、高木氏丹南藩領、北条氏狭山藩領村々も、油株の廃止を求め、大坂町奉行所へ歎願した。しかし却下されると摂河五六五カ村の村々の菜種・綿実などの売捌方の手広願国訴に合流した上で重ねて油株の廃止を要求したといわれている(『松原市史』一)。