文政六・七年の綿・菜種の国訴

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著名な文政六・七年(一八二三・四)両年の綿と菜種関係の国訴をとりあげたい。文政六年は大坂市内の三所問屋に対する国訴で、大坂の三所問屋というのは、寛永年間(一六二四~四三)に、京橋一丁目に開かれた川魚・東西(青物)・綿の三品を交易する問屋であった。その後、正保年間(一六四四~七)に川魚は京橋北詰、東西は天満市の近辺、実綿は相生西之町の三カ所に所替えになり、それから三所問屋という名称は、実綿などを取り扱う問屋をさすように変化してきた。彼らは、近在の村々から買い集めた実綿を始め、繰綿や他国産の綿まで買い販売していた。

 三所問屋は売買につき、最近きびしく取締まり横暴となってきた。摂河御料私領七八六カ村の惣代たちは、文政六年五月一八日に連名して訴願状を大坂町奉行へ差し出した。それは、「実綿売捌方手狭ニ而難渋仕候ニ付、手広ニ、相成候様類之御願」とあるように、三所問屋の独占横暴を排除する方向であった。すなわち、①大坂三所実綿問屋仲間が申し合わせ新法をたて、摂河村々の木綿売捌方を手狭にし値段を買いたたき、農民たちは困窮している。②三所実綿問屋仲間らのきびしい取締で、在方綿買は三所問屋の手先同然となり、他国の商人らは村々へ入れない。③綿作は人手労賃と肥料代が多分に必要である。しかし畑方はもちろん、田方も用水掛り悪く稲作は困難で、やむを得ず綿作を多く植え付けている。④幕領では木綿作につき貢租の減免を認めず、稲作の上々毛の作付に準じ年貢を賦課するので、木綿売捌が手狭になると生活が困難になる。以上が訴願の要旨である。この大訴訟の前に、同年四月二八日、摂河の御料・私領の郡ごとの総代が大参会し、大坂町奉行へ訴え出ることを相談したという(富田林杉山家文書「摂河両国之内千七カ村申合大坂三所問屋株御取放奉願上候一件之始末控」、『松原市史』一)。

 文政六年七八六カ村の訴願のときの惣代の選出とその一覧については、藪田貫氏『国訴と百姓一揆の研究』にくわしい。それによると、氏は惣代の類型を三つのグループに分け、代官所支配村々からの選出の者と、私領支配の村々からの選出の惣代および御料私領入組の村々からの選出の惣代に分け、説明している。前二者は支配領主制の立場で一領限りで出願したものである。後者は政治支配関係を越えて、郡ごとにしかも地域的に村落連合が形成され、郡ごとの寄合などで、その組織の拡大をはかったという。市域の近辺では錦部郡の惣代として、三日市村庄屋五兵衛と市村新田庄屋八郎兵衛の二人が、石川郡の惣代として大ケ塚村庄屋藤九郎がそれぞれ選出されている。以上の訴願に対してさらに二二一カ村が追訴し、同年六月一八日には一〇〇七カ村の国訴となった。以前と同様の内容を持った訴状を提出したが、これに対する大坂町奉行の裁決が出された。その内容は実綿・繰綿の売買については、村々からの要求が全面的に聞き入れられ、①摂河の村々の綿商人が、他国の商人や船頭に実綿の直売りや直積みをしてもよい。②他国商人や他国船の停泊の港へ行き、売捌きの交渉をしても、口銭は支払う必要はない。③実綿や繰綿の買入れでどこへ出向いてもよい。④綿値段の協定や踏下げのため、講の結成を禁止する。以上のような具体的な取り極めであった。

 綿の訴願でほぼその要求を貫徹した農民は油小売値段が高いことや、菜種・綿実両種物の販売市場が狭いことで、菜種・綿実・油に関する国訴をおこした。文政六年六月一三・一八日の両回にわたり、摂河一一七九カ村が加わり歎願したが「願下げ」となった。また和泉の村々でも同様な問題がおこり、このたびは和泉の村々をも連合に引き入れ、①種物値段は豊凶によって高下するようにしてほしい。②灯油は在方油稼人から時価で直買いできるようにしてほしい。との二点にしぼった国訴であった。文政七年四月のことで、摂河泉一三七〇カ村から提示され、三カ国総村数の約七七%にあたり、これまでの村数のもっとも多いものであった。しかし両種物・油に関する問題は、その後も幕府を悩ませた。幕府は油を統制し、菜種の流通機構を根本的に改正しなければならなかった。そこで天保三年(一八三二)一一月、油方仕法の大改革を実施した。その要点は、大坂両種物問屋の独占を抑え、大坂同様の問屋を堺と兵庫に新設し、絞油屋が生産地から両種物を直買いする事を大幅に認めたものであった。

写真202 諸国へ綿荷を積出す図 (『綿圃要務』)