天保九年(一八三八)二月に河州村々の水車・人力油稼人一同から訴論があった。永井飛騨守預所・永井左門知行所・木村惣左衛門代官所・三好権三郎知行所・小堀主税代官所ごとにそれぞれ五人を選出し、これに油稼人として交野郡私市村仁左衛門以下各郡(八上郡は不明)ごとに一六郡一人ずつ、連名して差し出している。その内には石川郡大伴村彦三郎と、錦部郡向田村惣左衛門の二人がみられ、富田林市域の油稼人であった。願書の内容は河内水車・人力油稼人の内で、取締役五人と河内一六郡で一郡に一人ずつの取締方の取立、稼人による両種物のせり買の禁止、稼人の休株の禁止、困窮者への元銀などの援助、油寄所への絞油の抜売・小売油密売の禁止、品質粗悪の油の稼方禁止、百姓方に対し両種物買入値段の通達、稼人無株の者の不正稼方の申出、取締方より毎月の油稼人の絞草買入高や出油増減高の書上など、多くの方面にまで及んでいる。
以上に対して天保九年三月、河内一六郡の御料・私領入組の惣代たちは(惣代の名前は不明)、油稼人が勢力を振るい、自己の資力にまかせ菜種取入以前に値段の下値を申し合せ、多量の菜種をあらかじめ購入することで巨利を貪るなど、一個人の利益のみを考える結果、農民たちは菜種生産につき意欲を失い、金銭方面の投機的取引などに関心を持ち、一般農民の経済的没落が始まることになる。油稼人たちはむしろ市中に居住し、その営業をやる方がよいと主張して反論しているひとこまがあった(『河内長野市史』六)。
また、同年三月には、河内御料・私領一六郡からの願人が出て、「菜種作増・両種物売捌方手広願」を差し出している。その内容は最近灯油が格別に高価で、人々は困窮しているが、油稼人が不正の稼方をいたし油粕に交ぜ物をして、そのうえに五人の取締役と一六人の下役が権勢を振い、両種物相場を油相場に準じて売買し、大変、迷惑である。最近は凶作続きで、麦作が増え菜種作が減じ、綿作も未曽有の不作で、自然と両種物が払底し、油相場も高直になっていく。元来、菜種・綿実の双方ともに毎年の豊凶や種物の善悪の相違等で、自然の相場が立ち売買が実施されるのが当然であるが、油相場に従って種物値段を決定することは、その理由が不明確である。寛政年間油稼の者に株仲間行司が許されたが文化二年摂州・河州村々の愁訴で、翌三年に廃止となった一件がある。その後菜種の生産が増え油が下値となった。どうか菜種綿実ともに、自然の相場で手広に売買できるよう仰せ付けられたいというのであった。
この国訴について訴願の経緯とその諸経費の詳細は、すでに解明されている。それによると、錦部郡の郡中の参会を基礎にして、石川・古市隣接の両郡との連合と、さらに大坂市中(高麗橋通谷町二丁目亀屋喜兵衛宅)での惣代参会という三つの重層的な組織・運動構造があったとされている。そのときの諸経費も明らかである。河州一四郡の惣代の諸活動費が、一貫三五六・二七匁であり、惣代たちのたびたびの寄合いや各方面への通信費が多く、他に会合の席料などを含むが、参加村々の総石高二二万六一四五石に高割賦されている。その外に、石川・古市・錦部三郡での諸活動費が三七三・八五匁で、これも三郡総高四万九七七九石に割り付けている。そして錦部郡の郡中限りの諸経費は、三二五・二五匁であり、人足賃や筆耕料のほか、郡中での二回の参会諸経費も含まれていた(藪田前掲書)。
この惣代の郡中参会のとき、市域の甲田村弥兵衛は河合寺村六左衛門らとともに郡中の会合に参会し、書類を大坂まで持参し、書類の作成準備などに多忙であった。天保九年三月一八日に、六左衛門のほかに付添二人の計四人で、富田林村での集会に参会し、弥兵衛は一九日に村々の印形をとって、帳面や願書下書の作成に当たっている。二二日には六左衛門とともに交代して、五日ずつ、その用事で出勤し、二七日には口上書七冊を作成するなど、訴願のための日程で多忙をきわめたのであった(河内長野市福田家文書「天保九戌三月より同年七月諸入用銀郡勘定済油方一件」)。