村方騒動は幕藩体制の社会の展開の各段階において、村政での指導と実施内容をめぐって、領主権力に直接対決する形態をとるよりも、むしろ、村役人に対する村政上の問題を基として発生した紛争である。それは村役人の専断や不正を契機として発生し、その特権の制限や剥奪が試みられた。村民の村内生活や生産条件、村政運営の平等化が重要な課題であった。ところが、近世後期になると商品生産の進んだ畿内農村にあっては農民層分解もすすみ、小農経営の安定化の現象も崩れ、村内の諸矛盾が進行して村役人としての村政の諸行為が、公私の混同や特権意識にもとづくことに由来するとして、公私の分離と新たな平準化を求めて村方騒動が多発する。この場合、村方騒動は、村政での支配権をめぐって争われることが多く、村方の共同体の分裂・対抗という形態をとり、その結果は、村内の支配機構の分裂によって解決をはかっている。しかし、逆に一度は分裂対抗した支配機構を、再び統合しようとする傾向が現れてくる場合もある(津田秀夫『近世民衆運動の研究』)。ここで取り上げる北大伴村の、近世後半期の村方騒動は、以上に述べた動向をよく反映しているとも考えられる。事件の経過推移を物語る史料に即して、それを略述したい。
北大伴村は西は石川をはさみ新堂村、東は山城村で、石川とその支流千早川にはさまれた平坦な地に位置する。村高は五八〇・四六石で、他に新田畑が二・〇五九石であった。土地は六分は旱損地、残りは水損地で、天明四年(一七八四)の作付の状況は、既述したように、稲作約五三%、木綿作約三五%で残りは雑毛作であった。戸口は、宝暦一〇年(一七六〇)で世帯数一一一戸、人口四四六人であったが(北大伴西村家文書「河州石川郡北大伴村明細帳」(宝暦一〇年五月))、天明期から寛政期にかけ減少し、寛政二年(一七九〇)には戸数一〇一戸、人口四〇七人となる。享和期から文化二年にかけ漸増し、人口四三七人、戸数一〇八戸となった。以降天保期にかけて増加の一途をたどり、嘉永二年(一八四九)では一一〇戸、四六四人となる。また村内の階層構成は宝暦七年では高持七〇戸に対し、無高は四二戸で全体の三七・五%であり、高持の最高は五〇・五七石であった。享和年間では、無高が四二戸から三五戸へ減少するが、零細な高持の貧農層が二戸増加し、嘉永期では「富農層が激しい凋落があり、また貧農層から無高への没落が認められる」(三浦忍「近世在郷町周辺の農村構造と人口」(森杉夫先生退官記念『政治経済の史的研究』))など、北大伴村の村方騒動は、村落内の階級構成の若干の変動期に起こっている。