北大伴村では、明和四年(一七六七)から翌年にかけ、村支配帳の勘定につき村方一件があり、惣代に九郎右衛門・与兵衛両人ら三六名の百姓らが、村支配帳に不分明の点が多いので、村支配帳の吟味を申し出ている一こまがある。三月に石原清左衛門役所からは二九日まで勘定をするように、下達している。また安永一〇年(一七八一)、先年の免割りのことで紛議があり、三郎右衛門と惣代百姓八人が仲裁して双方とも納得した。割賦方で平等で不公平にならぬようにしたいと村方百姓喜兵衛以下九二名が一同連印して年行司あてに差し出している(北大伴三嶋家文書「乍恐以書付御願奉申上候」)。約三〇年ほど経過し、文化五年(一八〇八)四月、北大伴村百姓義右衛門以下五九人の連印を以て、庄屋役の件で年寄二名から大坂の鈴木町南役所へ口上書が差し出されている。それは、年寄林八・宗吉と頭百姓政右衛門・藤兵衛・七郎兵衛・彦三郎らを召し事情を聞き、二五日まで評議してさまざまな意見も出たが、印形を押した五九人の者が奉行所の承諾を得て、先庄屋西村周助の忰喜三太を庄屋とし、年寄と村内の重だった百姓で援助したいので承知してほしいというのであった。
同年六月一日には太子村甚右衛門は南方惣百姓につぎのように申し述べている。北大伴村の情勢をみると、①南方百姓五〇人以上が西村喜三太を跡庄屋にしたい。②北方百姓三〇人以上が西村喜三太の庄屋就任に反対する。③西村喜三太は当年八歳であるが、跡庄屋の名義で同人が一五歳まで年寄二人が後見し、用事万端を担当する。それに加え、南方と北方とから一人一カ年ずつ百姓代が助け、村政にあたる。④こうして庄屋跡役は、当年から三カ年間年寄二人で兼帯し、百姓代も前条に記載のように勤務につとめ、三カ年後庄屋喜三八と名前をたて、一五歳まで年寄二人が後見して勤める。⑤村方の万事のことは村役人および主要な百姓が相談して決定し、たとえ村役人でも、万事につき自己の判断だけで処理せぬこと。等々と記し、南方総百姓にあてている。その後の推移は明らかではないが、文化五年(一八〇八)八月の史料では、庄屋役一件につき調査吟味中であるが、村方から猶予願が差し出されたことからみると、円満解決に至らなかったことを示すものである。また同年一一月二〇日付の史料では、当月一八日に年貢米取立の場所で、治右衛門が藤兵衛へ内談中、口論のうえ打擲に及んだので、政右衛門・庄左衛門両人取扱いで、治右衛門が詫一札申し入れた一件があった。いずれも、事態が紛糾を重ねている状況が理解できる(北大伴三嶋家文書「乍恐口上」「一札之事」)。