村方一件の和済

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翌文化六年三月二八日になり、北大伴村の利兵衛以下六四人の百姓の連印状が重田又兵衛役所あてに差し出された。北大伴村の跡庄屋役が定まらず、本年四月中にも南北の双方の惣代を出頭させたが結着できなかった。三宅村庄屋新兵衛、高井田村庄屋平左衛門両人に仲介取噯いを命ぜられたが、一回では終結しない内容である。結局、向う一〇カ年間は村内を株分けし、跡庄屋として西村周助の忰喜三太を就任させることで、取噯人一同で下済し了承を得た。ただ、周助の跡は喜三太を含め男子三人で、幼年のため農仕事ができず、家名相続も不安である。庄屋の名前をたてるため、向こう一〇カ年間、持高一〇石以上の重だった百姓が世話をすること。さしあたり庄屋給米を以て借財返却にあて、庄屋家の相続が可能のようにお願いしたいと申し出ている(北大伴三嶋家文書「乍恐口上」)。

 つぎに相互の間で結ばれた「為取替証文」の内容については、つぎのようである(北大伴三嶋家文書「為取替証文))。

表108 北大伴村株分表
株分高 戸数
南方  石 全体 高持 無高
358・232 68 60 7
内1、736(惣高)
北方 145・539 36 25 11
503・772 104 85 18

(1)村高内の株分けは表108の示すとおりで、一〇カ年間実直に勤務し喜三太の行状が宜しければ、南北の株を合体し庄屋一本とする。さしあたり、南方は年寄役の後見のもとで、周助の忰喜三太が就任する。北方は隣村庄屋が兼帯すること。

(2)免定は本巳年(文化六年)から未年(八年)まで三カ年間は南方で請け取り、そのうち午年(七年)一カ年だけ北方で請け取る。どちらか一方の村方へは写を渡すこと。

(3)郷倉は内部にて隔壁をつくり、貯米のこと。

(4)御国役堤、用水井路普請などの経費は村高全体の高割にする。

(5)変死人、行倒れ人の諸経費は南方・北方を問わず村高惣懸りとする。

(6)京講田は南方・北方に分けそれぞれで管理する。

(7)村方惣作田は一カ年ずつ南北隔年で管理する。

(8)諸勧化や浪人などの合力は一カ年ずつ南北隔年でつとめ、合力はすべて高割にする。

(9)光徳寺の所持高は南方で管理する。

(10)常念寺の所持高は北方で管理する。

(11)他村よりの入作高は持主の支配とする。

(12)年寄は水役を兼務し有給とする。

(13)昨年までの免定、皆済目録、村方諸書物などは喜三太の方で保管する。

(14)検地帳、田地名前帳など喜三太であずかり北方は写帳を渡す。

(15)毎年の宗門帳・五人組帳・村小入用帳などは株限りで作成する。

(16)村方へ懸わる御用向などは諸書物とともに一紙に記録し、双方で写し置く。

(17)用向きで村役人出勤のとき、免定の割合に応じ南方一人、北方一人ずつで勤める。

(18)村方諸取締のことは、先達っての申合わせに従い双方で厳守する。

(19)株分けになり村高や人数を取りきめたので、南・北相互間の交流は村役人が得心の上実行するが、銘々勝手な入組み出入は厳禁する。

 以上の申合せ条項を南・北両組百姓と年寄宗吉・林八・喜兵衛および差添人として三宅村庄屋新兵衛、高井田村庄屋平左衛門の両人が取噯い、重田又兵衛役所へ済口証文として提出した。そこでは村方共同体の分裂とみられる南株・北株の株分けを、具体的に明らかにしている。貢租や水利諸普請、行旅人の死傷者の取扱い、合力などへの負担、村方への御用向、その他村方への諸取締などは、南・北二株を含めた村全体で負担する。それらはすべて村全体に割賦する。ところが、村内の備荒貯穀は郷倉に障壁をつくり、各株ごとに貯米したり、京講田の管理は南・北両株に分け分掌、村内の二寺院も光徳寺は南株、常念寺は北株とする。なお、宗門帳・五人組帳・村小入用帳などは・株ごとに作成し、用向などで村役人の出勤は、南・北株各一人ずつ勤務等々と規定し、南北株の独立性や自律性を認める方向がみられる。しかし年貢関係の免定、皆済目録や村方諸書物などをはじめ、検地帳、田地名前帳など土地関係の基本帳簿類は、あくまで、南株の喜三太で管理し、北株は写を所有しているというように南株が中心である点もみられる。株分けによる南・北両株の出現は、村落社会生活における別村の生誕を意味するのではない。あくまでも、一村落内部におけるカイトの出現であり、新規に別村が形成されるのではなかった。しかも、二株とも一村内において全く平等のカイト村ではなかったことは、条文に明らかであった。