天保期済口一札

774 ~ 778

約一カ月を経て三宅村庄屋新兵衛・兼帯庄屋春日村一郎右衛門が立会い、和談解決をみ、彦三郎忰勝次郎・中野村親類惣代甚左衛門・南株百姓惣代年寄半六・百姓代長左衛門・北株百姓代政右衛門・同治郎兵衛が連名で、取噯人たる新兵衛と一郎左衛門に対し「対談議定一札」を差し出している。その要旨は多岐にわたるが煩をいとわず記すると、つぎのとおりである。

(1)南株と北株との株分けして、北株庄屋彦三郎退役後は南北合体し、庄屋決定まで春日村一郎右衛門に兼帯庄屋をたのむ。

(2)天保八年下付された飢夫食米(うえふじきまい)代銀を一個人で勝手に身元相応の者にあずけた。その銀子を無利息五カ年年賦で返済させたい。

(3)年貢米銀勘定については免定は両株一体で免割した。そこで最近の三カ年間勘定を再度取調して「年貢通(かよい)」を出したい。

(4)村方貯夫食囲穀は彦三郎と村方百姓ともに弁納し、石数のうち二石は彦三郎、三石は百姓から支出、五石を囲置きたい。

(5)文政一〇年水野領時代の先納銀・御講銀に未出銀者には、他借や村方弁銀で済ました。勘定は区々になったので、不足銀はすべて北株百姓から高割で、彦三郎も出銀させ、先六匁打ち出して、銀主と借入銀主方を救うので差引勘定で決済した。

(6)村小入用銀が北株は南株に比較し過分に掛るというが、北株は小高だからそう思うので、水野領のときの利弁銀を差入れ計算すること。文化年間の取り極めどおり、両株が一体となるので申し分がない。

(7)彦三郎居屋敷内諸建物は門屋敷・土蔵・油絞部屋など、四方に建物があり、少し境界よりはみ出ているので普請のとき建て替えること。

(8)菜種売捌手狭(てぜま)の由聞いているので、以後百姓が難儀せぬよう、自由に流通させたい。

(9)村方では村持地作徳白米六斗と、銀一六〇匁を彦三郎へ間違いなく渡した。ところが小前百姓への施行帳の内容がわかりにくい。別帳簿で計算されているが明確な勘定がほしい。

(10)小前たちの売払道具代は勘定帳を受取り調査が必要である。今後は組頭や世話人立会い受払いすること。

(11)小前死亡後、年貢未進などのため庄屋が耕作を継続している。今後は証人を立て印形を取りおくこと。

(12)一昨年凶作で百姓難渋のため、拝借した銀高は北株惣高割で貸したが、印形は取りおかなかった。そこで今回は改め、帳面に拝借印形をとっておき、上納は来る丑年まで五カ年間据えおき、寅年(天保一三)から亥年(嘉永四)まで無利足一〇カ年賦で毎年惣高割で返上納したい。

(13)村内野道や墓道など道筋が狭いので、一同得心のうえ、村役人が立会い改める。

(14)田畑の畦道の並木は本年中、短く伐取ること。

(15)村方惣作田地の内字牛神流作、字しまの作徳米は、先年からの村方の両寺修覆料である。両寺困窮のため、作徳米を両寺に渡すこと。

(16)村内字梶井路に井堰を新設し、村方から補助金を拠出すること。

(17)庄屋彦三郎の建家は南株茂兵衛居屋敷に隣接し、茂兵衛屋敷へ雨落(あまおち)になり、建屋の庇(ひさし)を切り取るよう申し入れ、双方得心した。

(18)文政八年御国役銀五四〇匁余を両株庄屋へ預け置き、勘定帳が不明で差引勘定もわからぬが、預銀高を取噯人(とりあつかいにん)がもらい受けたので支障がない。

(19)享保一一年石川屋九兵衛から常念寺に寄進の土地を取り調べた。証文は確かではないが、間違いなく常念寺の土地である。

(20)宝永七年開墾請負証文を彦三郎が所持するが、取調べたところ、高一〇・四二一石の地は流出したが再開発で本免入りの箇所もある。川成にもなり明細がわかり申分はない。

(21)流作地小作年貢は今後村方へ納入する。

(22)当戌国役下付銀は一貫五七八匁一分五厘で、庄屋彦三郎が所持したが、今後は各自へ賦課すること。

(23)紺屋株運上銀四六匁八分は以前から村高に割付け上納していたが、支障があるところもあり、村方から上納する。書物は彦三郎保持すること。

(24)彦三郎屋敷内の泉水が清助屋敷へ水抜き流出するが、今後は水抜きを中止する。

(25)東条川筋堤附寄洲の収入は氏神献灯料としていたが、彦三郎への差入れをやめ、今後とも献灯料としたい。

 そして、以上の各条は両株にとり支障差支えある条項を取噯い、双方が得心し和談した。文化のときの最終の約定の通り、南北一体に出入りがましいことがなく円満解決したと結んでいる。天保九年八月二三日のことである。同日付で、南北両株の年寄・百姓代、北株庄屋彦三郎および中野村親類惣代甚左衛門、ならびに取噯人三宅村庄屋新兵衛と春日村庄屋一郎右衛門らの一同は、小堀代官所に対しつぎのように申し出ている。両者の和談は一応整ったが、残勘定や取引の始末もあるので、全部終了するのは九月四日ごろと思われる。そこで一応、仮済口をすませたいということであった(北大伴三嶋家文書「天保九年六月十三日村方庄屋不帰依一件録」)。また、彦三郎一件につき仮済口が終了したので、当年六月二四日から取調中の手錠・宿預け・村預け中の彦三郎に対しては、さらに取調べ吟味、咎めを課することは、どうか免じてほしいという願上書が、彦三郎の忰勝次郎をはじめ、中野村親類惣代甚右衛門、北大伴村南株年寄・百姓代と同株惣代および取噯人の兼帯庄屋市郎右衛門、三宅村庄屋新兵衛らから、差し出されている(同上史料)。

 煩をいとわず、北大伴村南北両株一件の経過を概観してきた。近隣の丹南郡の諸村でも一八世紀の後半ごろから一九世紀にかけて、村落内の分裂と対抗を示す村方騒動が発生している。丹南郡小平尾村では安永年間ごろから村内の南・北両組の対立抗争が続き、ことに庄屋役への就任と兼任をめぐり争われ、一九世紀に入ってもやまず、幕末期になっても両組に分立して継続した(『美原町史』四)。また同郡半田村においても、文化年間ごろから二人の庄屋の中組と南組との両方の対立が顕著となった。文政年間にいったん和解するが、幕末期の弘化年間に再発し、安政年間に入っても両組の村方一件として継続していった(『狭山町史』一)。北大伴村の村方騒動もこのような近隣村落の動向と、よく類似した一件であり、軌を一にしたものと考えられる。しかも、村落社会生活全般にわたり、分裂と対抗とを含むものであった。