村方一件の結果、村政改革が実行され、村民相互の間で、新しい規約や申合せが作成されることも多い。甲田村の事例をあげておきたい。甲田村では村方勘定をめぐり出入があり、その結果、兼帯庄屋五兵衛のほか、年寄五名と村民二二名が連印して文化二年(一八〇五)九月に取締箇条を申し合わせた。その内容は多岐にわたるが、主要な点はつぎのようである。毎年の年貢や夫代高掛りの取立納入の期限を厳守、年寄約二名のほか三名を増員し、新・古年寄両人ずつで年番勤務のこと。年寄給や百姓惣代への給銀・補助銀を決定。諸会合のときの弁当持参、年行司参会のとき茶代を支給、大坂などへの出張旅費を下付、その他村役人・惣百姓とも金銀出入りなど、公務で出勤のとき諸入用を給付、宗門帳の作成の際の諸入用を棟割で負担支出、その他、毎年の年中事務経費や茶代・諸帳面の筆耕料として、銀子の支給など各方面にわたって、惣百姓も立ち会って作成したものである。しかも、帳面三冊をつくり、一冊は年番年寄へ廻覧、一冊は百姓代に渡すことを取り極めている。村方財政や会計の諸問題から発生した村方出入の結果として、具体的な諸勘定を明らかに取り極めた事例の一つである(近世Ⅲの一四)。
また出作百姓を中心とした村方一件として、嘉永~安政年間の石川郡板持村の事例にふれておく。石川郡板持村の百姓は隣村の錦部郡板持村へ出作していたが、先庄屋清左衛門の算用違いがあり、嘉永四年(一八五一)から錦部郡板持村の村役人らを相手取り、庄屋勘定違いと出作への割戻しや、村小入用の会計不分明のことで訴願した。その経緯の具体的な展開はさだかでない。富田林村徳平と岡田富三郎との両人が仲介し、銀四貫目を出銀することで和解した。同五年一二月、銀高割符に誤謬があり、小入用帳面の取調べで、錦部郡板持村の領主たる小出伊織陶器役所に訴えた。大庄屋が取調べたが、割符方には誤謬がなかった。入用雑用銀として銀一〇〇匁を石川郡板持村に渡すことで、一応落着した。ところが、安政三年(一八五六)二月、またもや問題が再燃した。石川郡板持村から両村で取締約定書を取り交わして、相互に対談書の内容を厳守するよう申し出があり、錦部郡板持村へ仰せ付けられたいというのであった。その結果は、この申し出が実現したらしい。まもなく石川郡板持村の出作惣代二名と庄屋十右衛門らは、万事にわたり取締りがなされ、村方改革ができて双方とも申し分がない。全くありがたく、石川郡板持村の本郷・出作の双方が感謝しているので、願書を願い下げしたいと結んでいる(東板持石田家文書「和談書」「乍恐申上書」「願下ヶ御断書」)。