文政一三年(一八三〇)三月から盛んになったおかげ参りは、一般に阿波国から始まり、紀伊国から和泉国へ、さらに兵庫・郡山・ついで大坂、山城、淡路そして摂津・河内全体へと拡大した。同月中旬には近畿一円と四国・東海の一部にも広まり、最高潮の時期を迎えた。そして、東海・中国・北陸まで席巻し七月末ごろには遠江以東・信濃などまで盛りかえし、八月末で一応、終止符をうったというが、一〇月末ごろまで続いたともいわれる。その規模も以前の明和八年(一七七一)のおかげ参りをはるかに凌ぐものであり、約四五〇万人以上の人々が参宮した。参宮の群衆が町や村の人を巻きこみながら数を増し、大群をつくり、家族が全部出かけて家が空になり、ときには領主からの禁令で、一戸に一人ずつ居残るようにとか、農事に支障なきよう交替で参宮せよとか触れられている(一橋徳川家領など)。群衆の人々の旅装はすでに紹介されているように、おかげの幟や旗を押し立て、揃いの衣装で参宮し、女性の男装もあり、柄杓(ひしゃく)を一本ずつ持ち、参宮した。柄杓を持つことは巡礼風俗で、施行をうけるためのものであった。道中の町や村では富豪らが中心となり、食事などを給付し振舞い、接待にもあたった。
文政のおかげ参りについての、まとまった記録などは、市域内では、いまだ確認されていない。
近辺の石川郡大ケ塚村の「享和三年~天保二年記録断片」によると、富田林村を中心に付近の村々からの様子を知ることができる。文政一三年閏三月三日・四日ころからおかげ参りが始まり「大坂堺紀州、当国大参詣」と述べており、続いて各地の宿屋・茶屋が混雑し始め、笠や柄杓が高価になったと記している。近在の村々にも、「両大友(伴)村、富田林、羽(葉)室、一須賀、太子、山田、春日」などには残らずおかげ参りに対する施行所があった。つづいて「御影ニ付 処々不思議之事共申候得共」とおかげ参りに伴う神異奇瑞談を紹介している。富田林村の施行場では、四月一二・三日ごろに粥の焚出しが今日で終了のところ、その日に焚(た)いた粥から芽が生じた。これは実際にあった「実之事也」と、わざわざ強調して書いている。喜志村でも施行の終りの四月一二・三日ごろ、山田村の牛追夘兵衛が通ったので、餅のきな粉を施行した。残った豆之粉を山田村の施行所に渡したいとのことで、夘兵衛にことづけたが、夘兵衛はその途中で持ち帰って牛に与えると勝手な思いつきで、そのまま帰るが、帰宅して袋が開かず、大変困惑した。近所の人びとに一部始終を語り、後悔した様子をみせたところ、すぐに袋が開いたと述べている。奇瑞談の一つでもあった。
また、五月末ごろから錦部郡の各地で降札があった。丹南郡半田村からおかげ踊りが始まり、六月には市村から寺田村へ、石川郡森屋村へと拡大していった。南大伴村から大ケ塚村へと押し移り、六月二六・七日両日に村中で相談しておかげ踊りを許可した。その時の歌詞や節廻しが、非常に興味深いと語り伝えており、富田林村周辺の村々の動きを、よく概観している(野村豊『河内石川村学術調査報告』)。
また、前述したように、街道筋に沿い太神宮夜燈などがみられ、河内・和泉からの参宮の群衆が往来したことがわかる。燈籠の場所は同時に接待所でもあったのである。
石川郡板持村ではおかげ参りの絶頂期の、文政一三年六月二二日、二五日、二六日と、村内の百姓国松、直右衛門、平左衛門の三軒の屋敷内に降札があった。その詳細は表109のとおりである。村方から領主への報告の体裁をとっている。伊勢外宮・内宮の御札所以外に、伊勢神宮への参宮をすすめ宿泊などの世話をなし、農民たちに伊勢講を結成させる御師の名前がみられる。慶応三年(一八六七)のええじゃないかに際し各方面に及ぶ降札たとえば、大黒天・大師像・威徳明王などの多様の御札に対して、太神宮の外宮・内宮や御師などの直接に伊勢神宮関係のものであり、ほかの雑多な御札を含まぬ点が相違する(東板持石田家文書)。
百姓名 | 降札名 | 月・日時刻場所 |
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国松 | 大神宮外宮 | 6・22・未刻・屋敷内土塀之際 |
直右衛門 | 天照大神宮内宮 | 6・25・申中刻・居宅椽先石ノ上 |
平左衛門 | 大神宮御師曽根鳥羽大夫 | 6・26・申上刻・屋敷内柿木之本 |
おかげ参りが盛んであった文政一三年閏三月一八日から、錦部郡彼方村狭山藩領の三人が伊勢参宮へと出発した。三人の伊勢参宮から帰宅するまで、彼らの旅行した道筋を具体的に跡付けてみたい(図33)。彼ら三人は三月一八日に、おそらく竹内街道などを利用し居村から大和に出て、横大路を東へ進み、大和追わけ、すなわち、在郷町たる桜井の慈恩寺村の旅籠に一泊した。慈恩寺村には中世から関所がおかれ、近世に入っても宿場町的存在で天保一四年に旅籠六軒があったという。そこから萩原(はぎわら)村(現榛原(はいばら)町)を通り、伊勢参宮への街道は二つに分かれる。一つは初瀬表街道で、北方へすすみ三本松から名張・阿保(青山峠)を経て伊勢に入り、大仰(おおのき)(現一志町)から南へ田丸(現玉城町)につき、山田へ向かう道で、現在の近鉄大阪線に沿い、やや遠廻り道であるが比較的平坦な道が続く。南へ向かうのは初瀬本街道である。萩原村から東南の方向に進み、大和の南部の室生村や御杖村を通り、田口(現榛原町)や神末(こうずえ)(現御杖村)などの諸村から奥津(おきつ)に出て、多気(たげ)(現美杉村)から仁柿(にがき)(現飯南町)、大石(おいし)を通って、この間に飼坂(いさか)・櫃坂(ひつさか)の二峠を経て櫛田川の河谷に沿い、相可(おうか)(現多気町)に出る。そこから田丸を経て宮川を渡って山田に到着する街道である。これは南河内や大和などから伊勢参宮する最短路であるが、途中でけわしい道や峠が多く、それだけ困難な街道でもあった。彼ら三人はこの初瀬本街道を通過して、伊勢神宮へと向かったのである。閏三月一九日に大和追わけ宿を出発し、田口で中飯し、一九日は神末(「こうずえ」)に宿泊、櫃坂峠を越えて伊勢国仁柿で中食をすませ、その日に津留ノ渡を通り櫛田川を渡河し、相可で泊まった。二一日宿所を出て宮川で中食するが、この間に田丸から宮川まで、一人だけ馬を使っている。宮川をすぎ山田に到着するが、伊勢山田の外宮・内宮への参拝をすませ三人とも御供料をあげた。ほかに山田で傘一本を購入している。二一日の晩は、伊勢参宮街道を北上して明上(明星)で泊まっているが、恐らく、おかげ参りで山田の宿舎の混雑を避けるためではないかとも思われる。翌二二日はさらに北上して月本(現三雲村)で中食をとり、伊賀街道を歩み長野峠へ出るまでの三間茶屋で一泊した。二三日は長野峠を越え服部川に沿い下り、伊賀国に入り阿山郡の山田村(現大山田村)で休憩中食をすませ、ここから大和街道(加太(かぶと)越奈良道)を進み、上野・島ヶ原を通過して、山城国大河原宿で泊まった。この道も畿内からの伊勢参宮によく利用された道であるが、沿道はおかげの年でもあり、ことのほか賑わい、施行なども多かったと思われる。加茂で中食するが三人は代金として一四文しか払わず「飯者施行ニ而」と記されている。二四日は大和郡山で宿泊し、城下の町場であるせいか、三人で宿泊代四〇〇文と、この旅行中の最高額の宿代を支払っている。二五日は信貴山の近辺で中食したが「中食者施行ニ而」とあるように、中飯代は記されていない。山中や坂道を歩くに適した阿波ぞうり(すべぞうり)を購入し、三足で五四文と記されている。終末の所に、三人の旅行中の諸経費の合計が計算されており、三貫六一一文に太神宮御供料八九文を始め賽銭や小使などをあわせ七〇〇文を合計して、四貫三一一文としている。一日一人平均一七九・四文で宿泊費が一一九・七文であるが、最低の明上で一〇〇文から大和郡山一三三文であった。中食代やその他経費も、きわめて切りつめている。おかげ参りの年の伊勢参宮旅行であるせいか、途中の混雑や領主による規制・禁令などもあり、往復八日間というきわめて短期間で参宮をすませている。また帰途は途中で中食などの施行を受けているが、旅宿は旅籠(はたご)代を支払い宿泊しており、無賃ではなかった。そして近世のお伊勢詣での一般的な風潮でもあった、帰途に京都・奈良などの社寺参詣や名所旧跡の見物をするといった旅行の実態とも相違する点があったことにふれておこう。
富田林在郷町の木綿商杉本家では、同年五月四日から、ほぼ同じ経路で伊勢参りに出かけているが、同月一三日まで計九泊一〇日の日程であった。恐らく皆が行くので自分も行ってみようと思い出かけたが、一人旅であった。そのときの総入用は三貫九四三文、一日平均で三九四・三文と、彼方村農民の二倍以上で宿泊費も、平均一七二・八文、中食も平均で七四・九文であった。全体の行程も二泊多いゆっくりした旅行であった。御供料も二一五文と多い上に、途中で馬を使い、あんま、髪結、薬代などで合計五六九文を必要とし、その上、奈良で案内人をやとい見物を楽しんでいる。このように、おかげ参りの人々の内には、農家と在郷町商家との間では、その旅行の実態や意識などのうえにも、かなりの相違があったことを示すものであろう(彼方土井家文書、富田林杉本家文書。山中浩之「河内在郷町の文化」奥田尚ほか(『関西の文化と歴史』))。