河内屋可正と「芸」意識

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富田林の人々が近世社会の成熟の中で、自らの生活を充実させ、より豊かにしていくために身につけはじめた文化とはどのようなものだったのだろうか。それをうかがう手がかりを与えてくれるものに『河内屋可正(かしょう)旧記』(野村豊・由井喜太郎編、清文堂)(以下『可正旧記』と略)がある。『可正旧記』は富田林に近接した大ケ塚の河内屋可正(壺井五兵衛)が元禄期に書き残した記録である。可正(一六三六~一七一三)の家は大ケ塚で油屋を営み、かたわら田畑を多く所持した人で、富田林の杉山家をはじめとする人々とも親しかった。『可正旧記』はその可正がこの地域で生きてきたあいだに見聞きし経験してきたさまざまな事象を教戒の意を含めて地域の人々や子孫に向けて書き残した記録で、元禄期の地域庶民の生活を知る上で豊かな知見を与えてくれる。

写真209 「河内屋可正旧記」巻7(壺井家文書)

 たとえば煎茶や蕎麦切が寛文期ころからこの地域に普及しはじめたこと、たばこもかつては「長命草講」という講をつくって月に一、二度のみあい、ときには「目をまはして絶死する事」もあったのが「此ころは五歳七歳まで用るやう」になってきたこと、なかでも飲酒の増加はいちじるしく、「ひた呑みに呑み」て家をつぶすもの、酒のために女房を「ほしごろし」にして自身は生き埋めにされてしまった者のことなど、元禄期に顕著になってきた生活風俗上の変化のことも興味深く語られている。このような変化はおそらく富田林地域においても同様であったろう。

 そのような生活上の変化をこの地へもたらしたものはやはり在郷町としての経済活動であったが、可正は在郷町の住人のあり方について「当地に住者は商ひばかりにても、其家久しくはとゝなひがたからん、又耕作のみにてもさかふる事さのみあらじ」といい、「商売と耕作とを車の両輪の如にすべし」(『可正旧記』巻一二)と語った。

 このような緊張した経営バランスに身をおくことを在郷町住人にふさわしいあり方とした可正ではあったが、しかし、文化の修得にも大変熱心であった。『可正旧記』の一節に「芸能を仕習ふべき事」(巻七)というのがある。そのはじめに可正はこう述べている。「進退の事をわすれず思ふ者ハ、いとま有時、慰ニ芸能をする共、心得の有へき事也。我身の上、若やの衰へをすくふへき芸能を仕習ふへき事也」と、つまり家業家産の維持に心くだくほどの者は、自分の生活と身心の衰えをすくうような「芸」を身につけるべきだというのである。

 それでは可正がすすめる「芸」とは何であろうか。まず「手カク事男ノ第一ノ芸也」という。字を書くこと文をつづることこそがすべての基礎として強調される。そして「算用」は「諸人是ヲ必ズ習ベシ」とのべられる。すなわち読・書・算こそが「進退」の維持に不可欠と意識された「芸」であった。ここでの「芸」という語は現在使っている芸能というような狭い意味でなく、生活を維持し、豊かにする上で必要な諸技術というほどの意味がこめられている。

 こういう「芸」を前提に、さらに「我身の上、若やの衰へをすくふへき芸能」がいわれるのである。

 ただし、その「芸」選択には、つぎのような意識があったことにも注意しておかなければならない。「世は太平也、身は百姓也。武芸をなせば心自ら勇がちに成て、事をこのむ気生ずる物也。惣て益なし。習ふことなかれ」(巻六)と。世は平和な時代であるという意識、そしてそのなかで「百姓」であるという身分意識が「芸」選択の基準として表明されている。しかしそれはたんに消極的な意味あいでの分限意識ではない。「身は百姓也」という強い自己限定は、逆に限定する内容についての強い自信を語っているともいえる。そういう「百姓」意識を前提に可正が愛好し、また富田林地域で最も普及した「芸」とは何であったのか。それはまず能謡曲であった。しかしなぜ能謡曲であるのだろうか。能は古典文学を豊かにふまえ、伝統的な語彙(ごい)や知識を錦織の如くつづった詞章をもち、その謡と仕舞は同時に身体的作法的訓練の意味をもつものであった。さらに可正においてはそういう文化的充足感としてのみ能が意識されていたのではない。可正は「謡ハ上下押ナベテナラフベシ」といい、「寝ナガラモ、行(あるき)ナガラモ、家業ヲナシ乍(ながら)モ、昼夜ヲワカタズ、ウタフニ少モ六ケ敷(むつかし)カラズ」と「芸能」をたんに余技としてではなく、生活・家業と一体化したものとしてみようとした。こうして可正が「当地ニ住シ者共、昔ヨリ今ニ至迄、或ハ拍子方或ハ地謡、ツレワキ、大夫ツレ、面々ニタシナマザルハナシ、別テ謡ハ衆人是ヲハゲメリ」と記すように、この地域の住民のあいだに広く受容展開されるものとなった。『可正旧記』には元禄七年(一六九四)から宝永三年(一七〇六)に至る、この地の住民たちの参加によって行われた能興行が二〇回分余り記載されている。ただし「右之外にも能度々有しかど略す」(巻十九)と記すように他にも多くの興行がもたれていたのである。家と地域の歴史をつづった『河内屋年代記』(大谷女子大学資料館報告書第三六冊)にみられる能の催しは枚挙に遑がないほどである。可正らは大ケ塚御堂(旧善念寺、現顕証寺)や自宅を中心に富田林・誉田八幡・久宝寺・堺・そしてときには大坂新地、また淀城下では藩主の前で演じて拝領品をもらうなどしばしば都市の能役者といっしょに演能しており、一農村の旦那芸というようなものでなく、一流に伍してゆけるだけの技倆を有するものであった。それは家と地域の持続と発展を象徴する「芸」となっていた。

 さてこの『可正旧記』の能関係記事の中に杉山八右衛門をはじめとする富田林の能愛好者の存在がみられる。元禄一六年二月一九日に杉山八右衛門は松囃能興行を催し、「柏崎」「松風」「邯鄲(かんたん)」などが演じられた。「但夜に入、雨天故らいでん(雷電)はなかりし」と記されるので、戸外に舞台が作られたのであろう。また同年二月二七日から三月二日までの間、南都から能役者大蔵八右衛門の子息八十郎をはじめその弟子衆が来訪して大ケ塚で演能がなされたときは「地謡ハ富田林衆十人斗(ばかり)、当地の輩と一緒に謡申されし」と記され、かなりの能愛好者がすでに富田林にも形成されていたことが知られる。杉山八右衛門は翌元禄一七年にも松囃子能を富田林御堂で催した。また宝永三年三月二三日には石川氏領の大庄屋新堂村理右衛門が自宅において能興行をもっている。

 『可正旧記』はもちろん大ケ塚を中心に記録されたものであるので、富田林関係の記載は部分的である。しかしそれでも元禄期には富田林へ能が普及しつつあったことはうかがわれよう。