富田林の能興行

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さてこの後、富田林では能はどのように浸透・定着していったのか。そこでつぎに富田林の酒造家・地主として近世を通じて最大の豪富を誇った杉山家の記録「万留帳」(富田林杉山家文書)をみてみよう。「万留帳」は元禄期から宝暦期に至る約五〇年間にわたって、家政・家業・村政を中心に、家内の体重調べから会所算用・所司代更迭・西国米直段等々まで、まさにその表題通り、さまざまな覚書が書きつがれているものであるが、その中に能謡を中心とした文化芸能記事が散見する。

 その関係記事はちょうど『可正旧記』のあとをうけるように宝永六年(一七〇九)から寛保三年(一七四三)までの間にみることができる(表110)。そのほとんどは能関係記事であるが、なかに『太平記』『難波戦記』の講釈師藤三周なるものがきたこと(宝永七年七月一三日)、揚弓場をつくって弓矢を買入れたこと(正徳三年六月)、尺時計の購入等々がみられ、また杉山家邸内や富田林村会所で座敷浄瑠璃の行われたことなどもみえる。

表110 杉山家「万留帳」にみる能謡曲などの記事
年月日 場所・興行者・主人 番組・内容 参加者 備考
宝永六(一七〇九) 富田林 杉山家 南都酒殿権右衛門来訪、杉山半四郎に小鼓稽古 小鼓誂代一〇五匁
六・二六~七・一〇 礼銀二〇匁
八・九~八・二七
同 八・二六 大ケ塚村九左衛門松囃子 「芭蕉」その他 鼓半四郎・(倉内)甚左衛門・茂兵衛・半左衛門・小佐衛門・水分屋六郎兵衛・藤井権六・竹屋八兵衛・同角左衛門・さど屋甚右衛門・坂田屋次郎兵衛・黒山屋三郎兵衛・大ケ塚地謡衆一四、五名
宝永七(一七一〇)・七・一三 杉山家 藤三周、『太平記』『難波戦記』講釈
正徳二(一七一二)・八・一三 杉山家 「甲陽軍記<ママ>」買入れ
正徳三(一七一三)・六 杉山家 揚弓場、弓矢買入
正徳四(一七一四)・六 杉山家 南都酒殿権右衛門来訪 (大鼓)森田重右衛門・倉内六之助・河村七兵衛・河村権六
富田林衆一七人入門稽古 (小鼓)河村助左衛門・杉山半四郎・倉内平助・河村平助・倉内菊松・坂野平助・富田元三郎・板持又三郎・河村万助・大嶋六郎兵衛
(笛)森五郎右衛門・森田十左衛門
(太こ)竹田治左衛門
正徳五(一七一五)・六・八 南堀江舞台追善能 「花月」 増五郎・忠七・利右衛門・三右衛門・忠兵衛左衛門・孫兵衛・利右衛門・三右衛門・全十郎
「実盛」
「江口」 長兵衛・助左衛門・平兵衛・九兵衛・清八
「ばせう」 藤兵衛・権兵衛・又右衛門・善吉・忠兵衛
「邯鄲」 長兵衛・助左衛門・与右衛門・善兵衛・四郎兵衛
享保六(一七二一)・三・七 富田林御坊追善能 「三輪」 杉山四郎右衛門・吉井八右衛門・河村万助・河村七兵衛・竹田治左衛門・坂野平助 古春・酒殿・吉井・芳原・木村らは役者連中
「末広」 酒殿権平
「八嶋」 古春増五郎・平田清四郎・芳原忠兵衛・倉内三郎助・河内平八
「名取川」 芳原弥次兵衛
「松風」 古春左衛門・岩井八左衛門・春藤四郎兵衛・河村助左衛門・木村次兵衛
「右近左近」 橋本治左衛門
「芦苅」 三枝三郎左衛門・酒井平蔵・富田宗八・倉内三郎助
「海士」 湯浅庄兵衛・八左衛門・沢田弥平次・助左衛門・橋本庄兵衛・木村孫右衛門
同 三・一四 杉山家 妙寿三三回忌法事 「柏崎」 木村仁兵衛・芳原忠兵衛・倉内三郎助
「春栄」 坂野平助・杉山四郎右衛門・河村万助
「江口」 杉山四郎右衛門仕舞拍子・木村仁兵衛・富田京八・河村国兵衛
「天鼓」 杉山四郎右衛門・坂野平助・河村万助・同助左衛門
「実盛」「羽衣」 佐備村五兵衛仕舞
享保八(一七二三)・五・一二~一三 富田林 万保氏(水分屋)四十賀拍子与 「東北」 (演者)倉内藤兵衛・杉山小太郎・倉田久五郎・木村仁兵衛 能入用覚太夫ほか雁の役者計一二人、その他、森屋村、三人大ケ塚一三人合計二八人へ礼銀食事代など二五九匁、および舞台入用、一〇〇目程
「毘沙門ゑひす」 仲村新蔵・倉内久五郎・酒殿権平
「龍田」 杉山八郎右衛門・河村万助・河村助左衛門・河村平八・高安幸助
「昆布売」 仲村新蔵・倉内久五郎
「狸々」 河村万五郎・木村仁兵衛・河村万助・河村七兵衛・河村平助・高安幸助
浄るり「会稽山」 (太夫)堺泉竹長重郎(ワキ)南野田辻野伊兵衛(三味線)勝野政市
同「仏御前あらき軍」 同右三人「女中凡弐十五六人聞に招申候」云々
同 ・六・三 杉山家 祐五〇回忌供養 「誓願寺」 甚左衛門・宗八・武助・平助・瀬平
「江口」 藤兵衛・万助・瀬平・仁兵衛
「海人」 甚右衛門・七兵衛・次郎兵衛・瀬平・源右衛門
(狂言)「舟ふな」 久五郎・新蔵
    「茶壷」 新蔵・久五郎・権兵衛
享保一九(一七三四)・二・二五 大坂生玉社勧進所南都興福寺寄進能 「翁」「高砂」「末広」「田村」「文相撲」「江口」「ちとり」「羅生門」「鬮罪人」「邯鄲」 (見物者)善左衛門・布屋(河村)助左衛門・竹屋惣左衛門・木本全十郎 (棧敷料)畳一畳二匁~二匁二分〆四匁二分
享保二〇(一七三五)閏三・一六 杉山家 薩州抱役者中西長兵衛氏入来 (仕舞)「自然居七」「羽衣」「西行桜」「千鳥」「花かたみ」「はしとみ」「桜川」「楊貴妃」「船弁慶」「うねめ」「三輪」「山姥」「花月」「梅かへ」「うとう」「八嶋」「海士」「忠度」など合計二五番 (演者)永田金吾・竹田惣左衛門・嶋野一菊・中西八之進・永田宗治・中西長兵衛・壷井正之助(五兵衛子)・長原村幸十郎・壷井五兵衛
元文元(一七三六)・三・三~四 富田林村会所 座敷浄瑠璃興行
同 ・八・二五 古市村真蓮寺 狂言番組 「船ふな」「不聞座頭素袍落」など一二番 八木権太郎・円尾藤助
名津金一郎など一一人、ただし富田林衆は演じていない
元文五(一七四〇)・七・二〇 富田林御坊 永田元治執行 「頼政」 (シテ)中西長兵衛・(ワキ)池上源助・上田善兵衛・古市長命万助
「隅田川」 中西長兵衛・田原弥次郎・由利源蔵・細井十右衛門
「芭蕉」 永田元治・池上源助・上田善兵衛
「天鼓」 中西長兵衛・由利源蔵・細井十右衛門・長命幸七
同 ・八・一八 鷺仁右衛門一代狂言見物(場所不明) (見物者)杉山善左衛門・供甚兵衛 (入用・二人分)
入札代四匁二分五厘 桟敷割六匁割弁当三匁菓子茶酒三匁
〆一六匁二分五厘
寛保二(一七四二)・正・二六 堺梅野甚左衛門松囃子 「高砂」「東北」「熊野」「三井寺」「箙」など一一番 富田林衆見物参加
同 ・五・二一 大坂生玉社奉納興行 「難波」「八嶋」「井筒」その他 壷井五兵衛(大ケ塚)がシテとして「難波」「井筒」に出演
寛保三(一七四三)・正・二六 堺神明山口 梅野甚左衛門松囃子 「高砂」「東北」「熊野」など一〇番 (富田林参加者)杉山善左衛門・永田元沢・沢村彦左衛門・片岡徳左衛門・杉山八郎右衛門・倉内甚左衛門・杉山七兵衛・杉山儀左衛門・河村万助・倉内仙助・森田新九郎・河村助十郎・河村彦四郎・永田元朝・片岡幸助・黒山伊助・杉山繁松
同 ・二・一五 当麻念仏院にて仕舞囃子 「誓願寺」「田村」「船弁慶」 津田藤平次・吉村左門・森田新九郎・三宅庄六・河井仁太郎・丹坂市左衛門・吉田友次郎
同 ・四・二五 当麻囃子 「弓八幡」「忠度」「熊野」「花月」 丹波市左衛門・吉村左門・長命万助・森田新九郎・三宅庄六・田中甚三郎・今村権兵衛・吉田友二郎・村田徳兵衛・坂野猶七・坂口幸助・津田茂平次
同 ・四 泉州貝塚卜半殿へ興正寺門跡御成能組 「蟻通」「井筒」「春栄」「景清」 小平屋覚兵衛・次兵衛・左近右衛門・源兵衛・左兵衛卜半庄十郎・弥三郎・権兵衛ら
同 ・六・五 古市西琳寺 「弓八幡」 (国分)東野三郎八・(寺田)井上重次郎・(堺)島山祐治・同北田三右衛門・(堺)井上喜兵衛・同鳥山庄右衛門・同田中清右衛門・(富田林)杉山繁松・同河村万助・同森田新九郎・(古市)長命万助他、大坂・南都・河内平尾・小山・小室・稲葉・柏原から参加
「半蔀」
「熊野」他略
同 ・六・五 誉田奥院囃子能 右とほぼ同じ 右とほぼ同じ人々
同 ・八・一九 大ケ塚小右衛門相撲興行
寛保四(一七四四)・七・一六 市川清兵衛役所 (仕舞)「東北」「梅がえ」「雲林院」「江口」「八嶋」「班女」「実盛」「桜川」など一五番 杉山繁松・永田元治・順七・清兵衛・しけ様
写真210 享保6年「万留帳」(杉山家文書)

 さて能興行関係記事は計二一回記されており(表110)、富田林においても御坊や杉山家を中心にしばしば興行がもたれ、また大坂・堺・古市・当麻・貝塚などへも出向いて、多くの交流をもっていた。当初は南都との関係が強かったようで、酒殿権右衛門という小鼓打がしばしば来訪した。宝永六年六月から七月にかけて、杉山家の子息半四郎は酒殿氏から小鼓を習いはじめ、また八月にも稽古をつけてもらい、小鼓を計一〇五匁で誂えている。八月二六日には大ケ塚九左衛門宅において「芭蕉」の曲の鼓を担当した。そのさいには富田林衆が多く出演するとともに昼食の外、「まんちう」、「くず袋」、菓子類が、富田林の商人たちから盛んに贈られている。

 正徳四年(一七一四)六月には富田林の人々一七名が酒殿権右衛門の門弟として、大鼓(四名)、小鼓(一〇名)、笛(二名)、太鼓(一名)それぞれについて稽古をつけてもらっている(表110参照)。

 そういうなかで享保六年(一七二一)三月七日の富田林御坊追善能は富田林の人々を中心演者としたかなり盛大な興行だったようである。これは、おそらく富田林の開基者証秀上人を追善(永禄一一年(一五六八)三月一五日寂)しての興行で、大坂の能太夫古春左衛門らも招いての催しであった。「三輪」「八嶋」「松風」「芦刈」「海士」が演じられ、その間に「末廣」「名取川」「右近左近」の狂言があった。たとえば最初の番組「三輪」の配役はつぎのように記されている。

                 大 河村万助  竹田治左衛門

[杉山四郎右衛門(挿入)]三輪       [わ(挿入)]吉井八右衛門

                 小 河村七兵衛 坂野平助

すなわち杉山四郎右衛門がシテ役を演じ、吉井氏がワキをつとめ、河村氏が大鼓・小鼓を、竹田氏・坂野氏が笛・太鼓を担当したのであろう。古春左衛門とその子息とみられる古春増五郎はそれぞれ「松風」と「八嶋」のシテを演じている。

 享保八年五月一二日の「万保氏四十賀拍子与」も富田林の能興行としては大きな催しとなった。これは富田林の酒造業をになった一人、万保氏=水分屋の四〇歳の祝賀として行われたもので、布屋(倉内家)・杉山家・佐渡屋(仲村家)・河村家などの酒造家が中心になって演能が催された。倉内藤兵衛や杉山八郎右衛門・河村万五郎がそれぞれ「東北」「龍田」「猩々」のシテを演じ、鼓や笛・太鼓を河村万助・同七兵衛らが担当した。演能が首尾よく終わったあとには「会稽山」という浄瑠璃が堺の大夫泉竹長重郎を招いて語られた。翌一三日には場所を杉山家に移し、まず浄瑠璃「仏御前あらき軍」という曲が語られるというので、「女中凡弐十五六人」を招待したという。その浄瑠璃の三段目に入る前に能「東北」が演じられ、その後、再び浄瑠璃が語られ、その終わりがけには興が乗ったものか、南都の酒殿氏が「拍子をとり」を舞ったという。このときの「能入用覚」として、雇いの役者一二人(脇二人、狂言二人、衣装着せ二人、小鼓一人、大鼓一人、太鼓一人、供三人)およびその旅籠代や昼食代として計銀二五九匁が計上され、さらに「舞台入用」として銀一〇〇目が加算されている。それでも「三番叟なしに致候ヘハ下直ニ付候」と記される。

 こうしてこの人々は、かたわら大坂生玉神社能や南堀江の能舞台での興行を見物に出かけたり、また古市西琳寺や誉田八幡、当麻や堺での催しに参加して演じたりもした。それはたんなる「遊び」という程度をこえたものになっていた。そのことは薩摩藩の抱え役者中西長兵衛が富田林を訪れて杉山家や富田林御坊で富田林の人々とともに演能していることからもうかがわれる。この中西氏と富田林の人々がどのような関係をつくっていたかはわからないが、江戸薩摩藩の屋敷で行われた能番組なども長兵衛から富田林の人々へ情報として伝達されており、強いつながりを有したことが知られる。

 ところで、一般に、近世の能は武家の式楽となり、将軍家はじめ各大名が能役者を抱えることによって、武家占有の芸となり、庶民層は、演能よりも謡を中心として享受するようになったといわれる。しかし、大ケ塚や富田林のあり方をみると、必ずしもそうではなく、謡はもちろんのこと、演能そのものが中心となっている。つまりこの地域の人々においては、謡文化というより、能文化となっていたのである。そしてそれはもちろん、豊かな経済生活があって可能となったといえよう。