さてこのように、富田林には能謡が生活文化の一部として強く浸透していった。それではその主要な愛好者たちはどのような人々だったのだろうか。「万留帳」にはその参加者名が詳しく記されている。やや不明の者もふくむが、役者や他の居村の者を除き、富田林在住者は約七〇名である。そしてそこには家名を同じくする者が多くみえる。同一家名に属するものは分家・別家を含むであろうが、一応同族に属するものとしてみると、表示の九家のもので計四三名を数え、約六割を占めている。これらの家々が能文化の中心層をなしていたとみてもよいであろう。
河村(布屋) | 万介・七兵衛・権六・助左衛門・平助・平八・彦左衛門・助十郎・彦四郎(9人) |
杉山(わた屋) | 四郎右衛門・繁松・長左衛門・半四郎・喜左衛門・小太郎・八郎右衛門・七兵衛・俵左衛門(9人) |
倉内 | 三郎助・六之助・平助・菊松・藤兵衛・久五郎・甚左衛門・仙助(8人) |
永田 | 元沢・元治・定治・金吾・元朝(5人) |
竹田(竹屋) | 八兵衛・惣左衛門・角左衛門・治左衛門(4人) |
森田 | 重右衛門・新九郎・十左衛門(3人) |
黒山屋(田守家) | 三郎兵衛・伊助(2人) |
佐渡屋(仲村家) | 甚右衛門・新蔵(2人) |
万保家(水分屋) | 六郎兵衛(1人) |
それではこれはどのような人々であったのだろうか。まず注目されるのは、これらのうち、河村・杉山・倉内・竹田・仲村・万保の六家は、享保七年(一七二二)正月、酒の販売協定をおこなうために結ばれた酒造仲間である「恵美須講」六家に属する家であることである。すなわち杉山四郎右衛門・倉内(布屋)甚左衛門・竹田(竹屋)八兵衛・河村(布屋)助左衛門・仲村(佐渡屋)甚右衛門・万保(水分屋)六郎兵衛である。この恵美須講は、元禄期の酒造運上銀賦課および酒造制限令が、宝永六年(一七〇九)、将軍綱吉の死とともに運上銀が廃止され、制限も緩和されて、酒造業が拡大してきたのに対応して結成されたものであった(福山昭「近世河内酒造業の展開」『富田林市史研究紀要』五)。
この内、杉山家や倉内家は、いわゆる「富田林開基八人衆」と称された家であり、当時村役人層にも属した。また仲村家(佐渡屋)は正徳五年(一七一五)にはじめて酒造業に着手し、その後、近世後期には河内最大の酒造家へと急速に発展してゆく家である。恵美須講の仲間外の家では、黒山屋(田守家)三郎兵衛家は代々の木綿商であり、貞享期にはすでに江州地方へ取引に出向いていた。そして宝永元年の大和川つけかえによって新たに開かれた綿作地帯と、それによる木綿業の拡大に対応して、宝永七年富田林木綿問屋仲間三軒が設置されたときの一人であった。その他、永田家は明細帳その他から代々富田林の医師であり、同時に村の文化人としての立場にあったものと思われる。
このように富田林の能の展開は、杉山家の能関係記事がちょうど宝永六年からみられるように酒造業の統制緩和による営業拡大と、宝永七年の木綿問屋結成にみられる木綿業のあらたな進展を背景とし、経済的上昇に文化的充足を加える意義をもって、上層商人層を中心に受容展開されていったとみられる。そしてその能謡の仲間が同時に酒造家仲間・木綿屋仲間であったように、「芸」をとおして商業仲間の結束を強化する意義をになうものであった。