元禄・享保期において富田林の人々が愛好した「芸」は能謡だけではなかった。この地域において能謡とならんでもっとも盛んであった「芸」は俳諧であった。
この地の俳諧のことについても『可正旧記』のなかの「可正俳諧の事」にまずよらねばならない。その記述によれば、寛永(一六二四~四三)正保(一六四四~七)のころまでは石川郡の中には俳諧というものはまったく知られていなかった。それが慶安のはじめ(一六四八年ころ)、可正一四、五歳のころ、年貢収納のためにやってきた代官の手代衆である和気仁兵衛、西川久左衛門などという人々から俳諧を習いはじめて面白いと思ったのがきっかけとなり、それが石川郡における俳諧のはじまりとなったという。それより可正は、壷井村唯正(ただまさ)や柏原村の三田浄久(さんだじょうきゅう)、誉田(こんだ)の一十(いちじゅう)などといっしょに、大坂天満の空存、堺の成安などにも会い、さらに談林派俳諧の指導者で西鶴らの師でもあった西山宗因はじめ、梶山保友、玖也(きゅうや)、また堺の長重・成之などと会席で句を練りあい、なお奥義をきわめたいと思って、京都の安原貞室の門弟とまでなった。太子村の重次、春日村の定久、山田村の正勝、大ケ塚の正慶・可高・可之・一夢などはみな可正がすすめて俳諧に誘い入れた。そのほかには延宝年間(一六七三~八〇)まではこの地域に俳諧する者は一人も、なかったという。
ここにのべられていることは、ほぼ事実に近い。今栄歳編『貞門談林俳人大鑑』(中央大学出版部一九八九年刊)は寛永一九年から蕉風確立直前の天和二年(一六八二)に至る四〇年間において、出版された俳書にみえる入句者名・入句数を精査網羅したものであるが、それによって知られる河内の俳人のなかでは河内屋可正が群を抜いている。可正は明暦四年(万治元年、一六五八)刊の『鸚鵡集(おうむしゅう)』にはじめてみえ、それ以後『貝殻集(かいがらしゅう)』(寛文七年刊)・『寛伍集』(同一〇年刊)・『難波草』(同一一年刊)・『塵塚』(同一一年刊)・『大海集』(同一二年刊)『河内鑑(かわちかがみ)名所記』(延宝七年、一六七九刊)と入集している。
とくに寛文七年、堺の長谷寺秀政という人によって編まれた『貝殻集』(大方保氏所蔵)という発句集は、堺を中心にしながらも、河内は四二人二五一句という大坂の六一人に次ぐ数を示しており、河内人の入句の最も多い俳書である(表112)。しかもその内、大ケ塚だけで河内全体の入集者の四分の一、句数では実に五割以上を占めている。中でも可正は七三句というずばぬけた多さである。その他、可正が誘い入れたという人々の名もみられ、可正が河内全体において牽引者的な位置を占めていたことを如実に示している。ここに示される可正の句は、たとえばつぎのようである。
松や竹や其外何や門の春
我かたによると鳴世猫の妻
発句にも切字はゆるせ花の枝
坂を下る輪のごとく也(なり)夏の月
世中(よのなか)は夢の精霊歳暮哉(しょうりょうせいぼかな)
入集者 | 入句者 | |
---|---|---|
人 | 句 | |
山城 | 12 | 31 |
大和 | 37 | 260 |
河内 | 42 | 251 |
和泉(堺) | 137 | 1156 |
大坂 | 61 | 245 |
武蔵 | 6 | 9 |
出羽 | 4 | 5 |
播磨 | 1 | 6 |
伊賀 | 1 | 1 |
紀伊 | 4 | 4 |
高野山 | 7 | 21 |
阿波 | 8 | 20 |
安芸 | 1 | 2 |
豊前 | 8 | 11 |
筑前 | 8 | 11 |
肥前(長崎) | 6 | 17 |
作者不知 | 6 |
大ケ塚 | ||
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句 | ||
可正 | 73 | |
可之 | 27 | |
可一 | 20 | |
可鳥 | 4 | |
可寿 | 1 | |
一夢 | 1 | |
宗次 | 1 | |
正慶 | 1 | |
三入 | 2 | |
撫子 | 1 | |
善全 | 3 | |
計 | 11人―134句 | |
人 | 句 | |
板持 | 1 | 1 |
白木 | 1 | 3 |
春日 | 2 | 10 |
山田 | 2 | 3 |
壷井 | 3 | 40 |
通法寺 | 1 | 1 |
大黒 | 1 | 1 |
上嶋 | 2 | 4 |
三日市 | 2 | 2 |
誉田 | 1 | 2 |
国分 | 1 | 1 |
今津 | 1 | 2 |
古野 | 1 | 1 |
上原 | 2 | 7 |
河堂 | 2 | 6 |
大塚 | 1 | 1 |
丹南 | 1 | 7 |
小川 | 1 | 4 |
全田 | 3 | 12 |
万代 | 2 | 8 |
なおこの『貝殻集』にみえる富田林市域の人としては、板持村の人で俳号「吉一」という人一人しかみえない。その句は秋の部に「讃州志渡の浦に船かりて」と題して「照せ月三五夜中の新珠嶌」と詠んでいる。
つぎの延宝年間になると、河内の俳諧普及とその分布を示す地誌的俳書の『河内鑑(かがみ)名所記』(延宝七年、一六七九刊)が出された。編者は、可正の俳友の一人であり、西鶴とも交渉のあった柏原村の肥料商兼柏原船の株主でもあった三田浄久である。その巻末に寄句者二六〇人の住所一覧がのせられており、河内の人は一一七人と当然もっとも多い。これによると、編者浄久の交流圏とも関係すると思われるが、河内中南部が中心でほぼその全域に及んでいる。ただしかし、石川郡についてみると中村・神山・寛弘寺・大ケ塚・上太子・春日・山田の各村であり、また錦部郡には一人の入句者もない。つまり石川支流東條川周辺地域と、大和と河内を結ぶ竹内街道ぞいの村々に限られていて、石川郡西部の現富田林市域内には入句者がみられない。
しかしこの時期市域内にはまったく愛好者が皆無であったというわけではない。さきの『貞門談林俳人大鑑』によって天和二年までの入集者としては極(ご)くわずかであるが、錦郡村の頼置(藤本氏)、富田林の由成、板持の重則・吉一の四名が知られる。なかでも、頼置だけは、五つの句集に計七句入集しているのが注目される。
以上のように河内では俳諧は大ケ塚の可正を起点として一七世紀半ばころから広汎に普及しつつあったが、主要街道や河川ぞいの地域を中心とし、富田林市域への浸透はややおくれたとみられる。