さてしかし、『可正旧記』には、前述の俳諧受容の記述につづいて、つぎのように記されるのである。
其外(そのほか)郡中に延宝年中迄(一六八〇年まで)は誹諧<ママ>する者一人もなかりしが、新堂・富田林なんどに十ケ年以前(一六八〇年の前半)より少々始れり、此比(このころ)(元禄六年、一六九三年ころ)は一句付(いっくづけ)と云(いう)事国々にはやりし故(ゆえ)、郡中不残(のこらず)はやりもて来て、女子童(わら)べ山賤(やまがつ)の類迄(たぐいまで)もてあそぶやうに成たりママ>
すなわち、新堂や富田林には天和(一六八一~八三)、貞享(一六八四~八七)ごろから俳諧が広がりはじめ、元禄年間に入ると、一句付というもっとも簡単な形式の前句付(まえくづけ)俳諧が登場し、それが石川郡一帯に普及し、女性や子ども、また山間の仕事に従事する人々の間にまで流行するようになったというのである。
前句付俳諧とは、点者(てんじゃ)(俳諧の優劣を評価する俳諧宗匠)が出題した七・七の短句に対し、一般愛好者が五・七・五の長句を付けて、その付合(つけあい)の優劣を楽しみ競いあう点取俳諧である。当初は俳諧の付合いを修練するための入門的意味ではじめられたが、しだいに独立し遊芸化してのちには雑俳として展開されていくものである。
しかしまた、この前句付俳諧はもう一つ重要な文化史的意義をもった。それは、俳諧の付合はこれまで同席して合評しあうのを原則としていたが、前句付俳諧は点者と作者とのあいだを仲介する第三者(取次、清書所(せいしょどころ))を登場させ、点者や作者たちが同席しなくてもよい方法をつくり出したことである。つまり都市在住の点者と距離的にへだてられ、また農商の業に暇をえにくい、地域庶民層に俳諧の付合いを遊芸文化として普及させ、またそれをかれら自身の獲得した新文芸として展開させていくうえで大きな意味をもつものとなる(宮田正信『雑俳史の研究』)。
しかも、この前句付俳諧は『俳諧高天鴬(たかまのうぐいす)』の元禄九年(一六九六)の序によれば、もともと万治年間(一六五八~六〇)に河内志紀郡小山村(現藤井寺市)の日暮重興(ひぐれしげおき)の創案になり、泉州堺の池島成之を点者としてはじめられたのが最初で、それがしだいに元禄期の盛況をよぶに至ったものという。なお、前句付にややおくれて冠付(かむりつけ)(笠付(かさづけ)ともいう)という、点者が出題した上五字すなわち冠(笠)に対し、中七字・下五字を付けて一句立てとするものも流行をみるが、これはしだいに点取を競いあい、褒美や賞品を出したりして一層娯楽性が強いものとなる。それが過度に追及されて、秀句に選ばれるのに金銭をかけたり、あるいは果てには自分で作句せず、興行主があらかじめ用意した句のなかから秀句を選んで賭ける三笠付とよばれる賭博行為に類似した事態も生じてきて、幕府などもしばしば禁令を出さざるをえなくなる。
ともあれ万治年間にはじまったとされる前句付俳諧は、天和・貞享期には富田林地域にも広がりはじめていた。そのさい、さきにもふれた『河内鑑名所記』の編者三田浄久が一定の役割を果たしたようである。浄久は西鶴によって「無類(ぶるい)の俳諧好、老(おい)のたのしみ是ひとつ」とした人といわれているが(『西鶴名残の友』巻二)、同時に彼は河州一円の前句付俳諧の取次や清書所をつとめており、大坂の俳諧点者と河州農村の俳諧愛好者との間をむすぶ媒介者ともなっていた(平林治徳編『三田浄久』)。浄久は都市の点者の出した前句をうけて、それを河内の各地域の媒介者に向けて送付し、在村愛好者たちから投句を募り、最終的に浄久のもとへ回収して清書をおこない、その清書本を点者のもとへ贈って加評点付をうけるのである。それをつぎには、付句作者たちに送付回覧して、各自の付句がどのような評価をうけたかを確認させる。その評と点をみることが、投句者たちにとってもっとも興味関心をひく楽しみとなったのである。およそそのころの付句一句についての投句料は銭一〇文ほどであったらしい。この投句料は俳諧を愛好するものなら、それほど富裕でなくとも投句が可能であったにちがいない。また一人で何句も投句できた。庶民の文芸への憧れと満足感を微妙にくすぐるこの俳諧は、作句それ自体の楽しさと簡易さ、そしてその評価への期待感をとおして人々の間に急速に広まっていった。