数奇者気質と『なつころも』

806 ~ 809

では、元禄期の富田林地域における前句付俳諧の様相はどのようであっただろうか。三田浄久宛の書簡から、北別井(べつい)村に吉近こと油屋長次兵衛という前句付の媒介者がいたことがわかる。吉近はある書簡で「梅雨軒の前句にて、石川・錦部郡・和泉衆かれこれ七月の清書には三十弐人連中御座候。八月の清書には四五十人も御ざ候」とのべている(『三田浄久』付録史料)。すなわち天和・貞享のころ、この吉近を媒介としてつながりをもった俳諧愛好者たちは、石川郡錦部郡そして泉州の一部に四、五〇人ほどいたのであろう。そして月ごとに前句の出題と付句募集があったようである。

 ところで吉近は別の浄久宛書簡のなかで、浄久が一投句者の付句を清書本の中で脱落させたことに関して「かようなる儀(俳諧のこと)に心をよせ申し候者、たかきもいやしきも、少しなることにめかど(目角)はたて申さず候」とのべている。つまり、俳諧という風雅な文芸に心をよせるものは、そのような些細なことに腹を立てたりしないというのである。そこには雅文芸にたずさわっているという自意識と気位の高さがみられよう。それは数寄者気質(すきしゃかたぎ)(風雅を志向する意識)ともよばれるべきものである。

 そのような志向性をもつとみられる前句付清書本の具体例をみてみよう。実際にこの地域の人々はどのような句をよんでいたのだろうか。元禄一〇年(一六九七)、園女(そのめ)(芭蕉門下)の点評による『なつころも』と題された清書本が報告されている(山崎喜好「河内国の前句付」(『国語国文』二一の六))。現在原本の所在が不明であるが、入念な装釘で表紙裏は金泥、桝形本に近い書型で、意匠をこらした清書本であったという。清書所は不明であるが、園女が出した前句は「しるもしらぬも知るもしらぬも」と「げにおもしろき所なりけり」の二題で、前者には二四句、後者には二七句の付句がなされているという。今、全容を知ることができないが、紹介された所によると河内を中心に行われたもので富田林の人が最も多く、ついで八尾・三日市・新堂・上田の人々であり、主として町場地域である。つぎに富田林の人々の付句をあげてみよう。前句「しるもしらぬも知るもしらぬも」に対しては、たとえば

梶原に似せる役者ハ悪(にく)まれて      富田林梅子

 第三

 世のことハりさもこそ

往還の塚は念仏の拾ひもの

 第四

 世にあハれをしらぬものなし

富士とさへきけば雪見る心地して    一之

   さもこそ

橋杭にかゝる死骸のあはれにて     不及

乗合は諸国の人の雑喉寝にて      梅子

 第七

 何をきこふともなにをわらハふとも

また後者の前句「げにおもしろき所なりけり」に対する付句は

春の末花喰まぜて茶漬食        富田林定之

 第二

 つねにかハりて一しほの味ひもあるにや

見物して死なば桜へ魂帰れ       同祀金

 第六

 花にはあかぬこゝろざし

晝(ひる)舟にしらぬ山家の名をといて     定朝

以上のように、これはかなり風雅を意識した句が多い。「女子童べ山賤の類迄もてあそぶ」というのとはどうも異質なようである。しかも、合わせて付句五一句という少数である。これはさきの北別井の吉近が募集しうる人数に近い。元禄期には町場を中心に少数ではあるが熱心な数寄者気質をもつ俳諧愛好者が形成されていたのである。この富田林の町にも少くとも六人のすぐれた俳諧数寄者がいた。ただしこの人々の通称が知られず、どのような人たちであったのかはわからない。町場地域との交流が強いとみられる点からいえば、やはり有力な商人層が想定されよう。