月並句合と富田林

815 ~ 819

富田林地域における俳諧の受容と新たな展開は元禄期にその中心があったが、その後も愛好者が絶えることなく継続した。そのことは、明治期富田林の明星派歌人石上露子(杉山タカ)が「杉山家には俳人の血がひそんでいるのか、宝暦ごろの介庵様についでお父様は幼いころから俳句に関心がある。少年可甫としるされた巻なども残っている」(「自伝落葉のくに」(中公文庫『石上露子集』))とのべていることからもうかがわれよう。ただし近世後期になると、俳諧人口はおそらく膨大なものであったろうし、またその人々がどのような句集に入集しているかを探すことも容易ではない。ここでは偶目しえた句集の内、富田林地域の人々の入句のみられるものを、その入句者名とともに年代順に表示してみよう。当然この他にも入句のみられる俳書はあると思われるが、これだけでも一応の傾向を知ることができよう。

表115 近世後期の句集入句者
年代 俳書名 富田林地域入句者俳号 備考
寛政12年正月~12月(1800) 黄華庵升六撰月並抜章 甫六(11)、李郷(5)、巴竜(10)、馬羊(6)、八千里(6)、普宥(5)、小田輝(3)、芦江(2)、小まつ(2)、新堂南岡(1) 新堂の南岡以外はすべて富田林居住者、甫六は12カ月の内、5回高点の一位を占めている。( )内は登場月数
享和元年正月~7月(1801) 黄華庵升六撰月並抜章 李郷(4)、巴竜(1)、甫六(6)、馬羊(1)、普宥(2)、八千里(5)、芦江(2)、小田輝(2)、ト山(2)、鯉白(1)、涼月(1)、奈津美(1) すべて富田林居住者、甫六は2回、高点一位
文化元年正月~3月(1804) 黄華庵升六撰月並抜章 甫六(2)、小田輝(1)、魯岳(1)、八千里(1)、鴬和(2)、芦江(1)、季角(1)、 ①②③を通じて、富田林以外では難波、堺、敦賀、近江、越中、大和、丹波、丹後、若狭美作、伊勢などがみえる
文化4年(1807) 画入諸国俳句高名集 「河内富田林社中」として小田輝・八千里・蘆江・芦江 4人それぞれ半葉に1人ずつ3句ずつ配す。本書は、八千房屋烏の主宰したものと思われる。
文化8年(1811) 俳諧真白糸(八千房屋烏撰) 燕之(6句)芦江(4) 13カ国34所より寄句、河内では他に大井、和州では竹内、高取
文化12年(1815)カ なゝ七日 茶の子能(木僊追悼句集、八千房編) 燕之、涛零、八千里、李郷 八千房二世木僊、文化12年正月5日、74歳で没
文政2年(1819) 青陽帖 「河内富田林社」として、桃瑶・田寿起・子七・雪橙・燕之 半葉に2人ずつ配す『青陽帖』は、八千房屋烏がこのころから毎年、正月ころに句を募って編集刊行したもの
文政4年(1821) 青陽帖 「河内富田林社」として、桃瑶・燕之・田寿起
文政5年(1822) 青陽帖 「河陽富田林社」として、桃瑶・燕之・子長・田寿起
文政6年(1823) 青陽帖 桃瑶・燕之・子長・龍標
文政11年(1828) 表紙、題不明(松井忠蔵版) 燕之(1)、桃瑶(1) 一丁目に「文政十一戊子歳首」とあり、発頭の句が一肖であるところから八千房の歳旦集ではないかと思われる。田守家一冊
文政12年(1829) (八千里三回忌追悼句合)彩色一枚刷 馬羊・子馬・淇悠・谷亭・米翁・三甫・雪橙・巴龍・田寿起・季角・紫槙・子七・燕之・信行・仲村休・普宥・湖蝶・李郷・桃瑶・士益(合20名) 他に五條(13)、新堂(3)、貝塚(1)、三宅(1)、古市(4)、狭山(3)、高松(1)、野田(1)、ナニワ(7)がある。八千房屋烏や一肖も句を寄せている。仲村家幅仕立刷物
天保6年(1835) 河内往来 燕之・李郷・子七・馬羊・竹洞(新堂)、みす(喜志川面) 河内交野の堀月下編、加地士龍書 俳句94人 歌17人 狂歌7人 書10人

注)①~④、⑦~⑩は、桜井武次郎氏所蔵本(柿衛文庫蔵マイクロ・フィルムを使用)。⑤⑪は、田守邦之助氏所蔵、⑥⑫は仲村誠一氏蔵、⑬は大阪府立中之島図書館蔵。

 近世後期において、最初に確認されるのは、黄華庵升六(こうかあんしょうろく)の撰になる月並抜章である。升六(文化一三年、一八一六没)は大坂で活躍した俳諧者で、不二庵二柳の門下に出で、化政期の大坂俳壇の実力者であり、一茶とも親交があったという。その芭蕉七部集の注釈書『冬の日注解』は類書の中で最も詳細といわれる。この升六の行いはじめた庶民向け俳句指導の方法として月並句合(つきなみくあわせ)とよばれるものがあった。月並というと今ではいかにも通俗的常套表現の代名詞となっているが、これは月毎に行われる句合(くあわせ)、すなわち提出された句に優劣の評価をつける催しであった。およそその原則として(一)不特定多数の投句者を対象とし、(二)投句料(入花料)をとり、(三)高点句に景品を出し、(四)高点句を載せる刷り物(返草)を作るということがあった。ただし(一)については自然に特定宗匠門下に限られるようになり、完全にオープンなものではなくなっていったようである。が、投句に際して資格は問われず、参加しようと思えばだれでも参加できた(桜井武次郎「上方の月並句合」(『連歌俳諧研究』五三))。

 さてこの月並句合は江戸・京では寛政期初年に登場してきたが、大坂で、今のところ最も古いとみられているのが、この黄華庵升六による寛政一二年(一八〇〇)の正月から一二月に至る抜章、すなわち優秀句を抜粋した刷り物(返草)である。そしてここに、富田林の人が計一〇名も登場している。甫六・李郷・巴竜・馬羊・八千里・普宥・小田輝・芦江といった俳号をもつ人々はとくに熱心であり、ほぼ毎月投句していたらしい。そしてそれは文化年間にまで及んでいる。甫六はとくに優秀であったようで、寛政一二年でいえば、一二カ月の内、五カ月において最高点位を占めている。秀句は巻頭や巻軸におかれることが多いが、正月抜章のその部分を示せばつぎのようである。

  正月抜章

秀逸  黄華庵升六撰

    よき事に心のうつる睦月哉              富田林李郷

    若草の水にしたしきゆふけかな            三日市鯉白

      (中略 この間一七句あり)

    ゆふ雲や田にし動て小雨降              富田林甫六

巻軸  春の雲かきりのあれハ暮にけり               馬羊

 これらの人々は、他に大坂・堺・池田・伊丹・丹波・大和・丹後等々の投句者たちの中にあって、この月並句合の一中心勢力をなしている。おそらく、この句合以前より黄華庵升六に師事していたのであろう。そのうち一人が新堂であるほか、すべて在郷町富田林の住人である。なお小まつ・奈津美という女性とみられる人が二名いることも注意される。