八千房社中と八千里

819 ~ 822

さてこの後、文化・文政年間においてみられる句集は、ほぼすべて大坂の八千房屋烏(はっせんぼうおくう)の主宰したものである。八千房は半時庵淡々(はんじあんたんたん)門下の舎桲(しゃぼつ)を一世とし、二世駝岳(たがく)(五竹庵木僊)、そして三世八千房が屋烏であった。この時期八千房は大坂・河内・大和から備中・美作・伯耆・讃岐・伊予・そして九州の豊前・豊後に至るまで西日本に広い支持基盤をもっていた。富田林の人々も「河州富田林社中」という形で参加することが多かった。おそらく選者と社中の人々を媒介する取次者がいたのであろう。この時期には、黄華庵の月並句合に参加した人々も時にみえるが、また八千房系列の新たな人々の活躍も多い。燕之・桃瑤・田寿起などである。燕之については表中⑤の『俳諧真白糸』の見返しに「燕之ハ田守家先々代ノ主ナリ」と書付られていて、過去帳などから天保一四年(一八四三)に六九歳で亡くなった木綿問屋の当主黒山屋三郎右衛門であるらしい。かれらの句の一端を示しておこう。たとえば八千房主宰の文政五年(一八二二)『青陽帖』には見開きでつぎのようにみえる。

  河陽富田林社

   春興

 鴬の一枝下りて初音哉    桃瑤

   おなしく

  頼母しき首途(かどで)の空や野ハ雪解  燕之

   首春

  春立て朝日のめくる松柏   子長

   春興

 鴬や下に置セる小盃     田寿起

 圏点の付いているのは一定の評価を示すものである。なおこの『青陽帖』は毎年出された歳旦集のようである。天保期の一書にみえる舌代(しただい)(口上書)によれば、毎年正月二月の内に出句して六月には刷り物として配られることになっている。またそれに付された「旧例定料」によれば、この『青陽帖』への入句料は、二句入銀三匁六分、壱句入壱匁七分、半面取(一頁分)南鐐一片(二朱銀)であり、画入または二人で半面などは銀一〇匁、歌仙壱折は金一〇〇疋となっている。したがって、たとえば前掲の桃瑤や燕之などが二人で半面を占めているのは銀一〇匁を要したものと考えられる。富田林の人々は多くこの形式で載せられている。

 文政一〇年、富田林の俳人八千里がなくなった。八千里が仲村(佐渡屋)新右衛門であることは文化元年の『黄華庵月並抜章』(仲村家蔵)の書付けから知られる。この八千里は寛政期以来、甫六・李郷・巴竜・燕之らとともに富田林の俳諧愛好者の一中心であった。おそらく、この俳号から想像されるように、もともと八千房系の宗匠に従っていたのであろう。このような俳号をもつこと自体、八千房から何らかの点で特別扱いされた人のように思われる。あるいはそれは経済的な支援であったかもしれない。

 この八千里の三回忌に際し、追悼句合が催され、それが一枚の刷物として配られた。右側に彩色の立花図が配され、巻頭に

さしあたる言葉はかりおもへとも しれぬ

うき世にしれぬ身なれは

雨一夜秋の秋とはなりにけり  亡八千里

と、八千里の辞世とも思われる句を掲げる。虫の秋という通俗ではなく、あえて「秋の秋」とよみこんだところに、人生の秋の深いたそがれをも感じさせる。これを発句に付ける形で

西にむかへハはるゝ月かけ    士益

萩すゝき道のしるへに折かけて  普宥

旅した夢の覚ておかしき     桃瑤

椽先につくりとたては冬の峯   李郷

松明のときれを千鳥鳴らむ    湖蝶

と、息子の士益(徳兵衛信億)をはじめ、俳諧をともにしてきた仲間たちが連句を手向けている。そして以下、和歌一首・漢詩二首・追悼句五五句、人数では五四名の人が詩句を寄せた。その人々の地域は表106に示したように富田林が二〇名と当然ながら最も多い。そしてそこにはこの時期の富田林における俳諧関係者がほぼ網羅されているものと考えられる。他では五條が多いが、仲村家の縁戚があるということも一理由であろう。大坂から七名の寄句がみえるが、その中には、八千房屋烏が当時の富田林の名産である葡萄にかけてつぎの句を寄せている。

  八千里を悼む

秋風の吹崩しけり葡萄棚   屋烏

このように富田林の人々は寛政期から化政期、大坂の黄華庵や八千房の主宰する月並句合を中心に俳諧活動を行なっていた。月並という語にまとわりつく先入見を捨てて、俳諧において学びと遊びの精神が一体となったあり方に目を向けるべきであろう。富田林の人々の文化とはしかめつらしいものではなく、生活の中に遊びとして溶け込んでいるような質のものであった。