1 学芸の普及と遊学者

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 元禄~享保期の庶民文化は町場と農村でやや異質性を含みながらも、能謡や俳諧を中心とした遊芸文化として展開したといえよう。これはその後についても大きな文化的流れとなって継続していったが、一八世紀半ばころからは、そこへ新たな要素が加えられていった。それは学芸文化である。

 都市でも、たとえば大坂において学芸専門の案内誌『浪華郷友録』が刊行されたのは、安永四年(一七七五)であった。それは従来、職業案内誌の中で、「諸師芸術之部」として扱われていた「芸」に携わる多くの師家の内、学芸部門が独立したことを示すものであった。儒家を筆頭に医家・緇流(しりゅう)(学僧)・聞人(職業的学者でなく学問を愛好した町人学者)・書家・画家・作印家という七類が扱われている。つまりこれらの学芸が、文芸や遊芸とは区別されて意識されはじめたことを示す。学芸が独自の領域として社会的に認められるようになったのである。一八世紀半ばころに、それらの学芸を自立させうる社会的な基盤が形成されてきたことを示している。とくに儒学と医学の増加発展には著しいものがあった。元禄期には大坂に二~五名程度であった儒学者が、『浪華郷友録』では四九人という多数を示すに至っている。

 この動きの背景となった事情を大坂についてみておくと、一つは浪華混沌詩社という結社が形成されたことが大きな刺激を与えた。同社は明和二年(一七六五)、大坂の町人学者たちと西国を中心とする青年学者たちによって結成された学芸運動のグループで、都市だけでなく農村の青年たちにも強い刺激を与えるものとなった。もう一つは享保一一年(一七二六)に大坂町人の出資と幕府の援助によって設立された町人学問所懐徳堂に、この時期、中井竹山・履軒のすぐれた学者兄弟が出たことで多くの門弟が集まり隆盛期を築きつつあったことである。この二つを代表とする新たな動きは、学芸を庶民社会に広く浸透させていく原動力となった。学問の伝統を誇る京都においても、江村北海・清田澹叟・皆川淇園・柴野栗山らが、ゆるやかなグループをつくりながら新たな儒学への道をさぐりつつあった。かれらの動きは、医学における山脇東洋・吉益東洞・賀川玄悦らの「親試実験」主義医学(自分の眼で病状・身体を確め、医療効果を高めようとする実証的で経験観察を重んずる医学、中国古代医学はそうであったとして復古を主張したので古医方(こいほう)とよばれた)の動きと呼応して、従来の伝統的なあり方に対して新風をひきおこしつつあった。こういう新たな儒学と医学の動きが、学芸を独立させる社会的な基盤を培かったのである。こうして学芸は都市において独自の分野となったが、在郷町を含む富田林地域ではどのような動きがみられただろうか。

 はじめに富田林市域を含む石川郡・錦部郡の中から学芸を志して私塾に入門遊学した者がどの程度いたのかを、現在知られている門人簿を中心に探ってみよう。遊学は、地域の中から学芸を身につけようとする自発的意志を最もよく示し、地域における学芸の形成と定着をうかがう上で、手がかりになるものと考えられるからである。

 そうするとこの地域からの遊学者は計二〇人知られる。但し、吉井寿軒、西村允蔵は重出であるので実数は一八名である。その内、富田林市域内の者は一〇名(実数九名)である。河内一四郡全体で一六七名であることからみて、多い方とはいえないにしても、決して少ないわけではない。交野郡や茨田郡のような京・大坂の往還地帯にある地域はやはり距離的に近く、また情報的刺激も多く、いずれも一郡で二〇名余を示している。それにくらべると少ないが、とくに石川郡は一四名を数え、京・大坂からは他に比して遠いにもかかわらず、一定の遊学者を示していることは注目されよう。

表116 富田林地域からの遊学者一覧(番号をで囲んだものは富田林市域内)
入門年月日 (西暦) 氏名 年令出身身分 塾主・塾名 塾所在 塾種
1 元禄3.5.6 (1690) 瑞峯 石川 上太子 古義堂(伊藤東涯)
2 享保4.3.25 (1719) 吉井寿軒 石川 大ケ塚 山脇玄脩
3 同 4.4.4 (同) 吉井寿軒 石川 大ケ塚 古義堂(伊藤東涯)
寛保2. (1742) 定吉 石川 富田林 18・医 堀元厚
明和9.7 (1772) 西邨又兵衛 石川 北大伴 25・農 山脇東門
同 9.冬 (同) 西村允蔵 石川 北大伴 25・慶 皆川淇園
7 安永3.春 (1774) 吉井寿軒 石川 大ケ塚 29・医 皆川淇園
8 同 4.4 (1775) 津田尚節 錦部 吉益南涯
9 同 4.10 (同) 津田尚謙 錦部 同上
享和2. (1802) 倉内隼人 石川 富田林 18・医 春林軒(華岡青洲) 紀州
文化8.10 (1811) 増田原流 石川 富田林 同上 紀州
同 10.10.8 (1813) 中春二 石川 富田林 合水堂(華岡鹿域) 大坂
天保12.7.2 (1841) 清水大蔵 石川 新堂 梅花社(篠崎小竹) 大坂
同 13.2. (1842) 波多俊二 錦部 錦織 百々俊徳
15 同 13. (同) 浅尾元栄 石川 山城 春林軒(華岡) 紀州
同 14.9 (1843) 司馬衡三郎 石川 新堂 百々俊徳
17 嘉永6.2.24 (1853) 森本健吉 錦部 西代 春林軒 紀州
18 安政2.2.23 (1855) 吉井儀蔵 錦部 長野 18・医 適塾 大坂 蘭医
19 同 2.5.14 (同) 岸左京 錦部 石仏 春林軒 紀州
年不明 木邑貞蔵 石川 新堂 象先堂(伊東玄朴) 江戸 蘭医

<出典>1.3.は「伊東東涯『初見帖』」(『ビブリア』92~96)
    2.は杏雨書屋蔵「第二世芸叟先生門人籍」
    ④は杉山家文書『御用留日記』
    ⑤⑭⑯は『京都の医学史』資料編所収の各塾門人帳
    ⑥7.⑬は、『名家門人録集』(上方芸文叢刊五)
    8.9.は「深川本『吉益南涯門』」(一)(二)(『漢方の臨床』35―10・11)
    ⑩⑪⑫⑮17.19.は、呉秀三『華岡青洲先生及び其外科』
    ⑱は緒方富雄『緒方洪庵伝』
    ⑳は、伊東栄『伊東玄朴』
     なお8、9の津田尚謙・尚節の二名は、出身地が「阿波錦部」と記され、河内錦部の誤りではないかとみられる。但し、阿波に「海部郡」があるので、その可能性も残す。

 時期的にみれば、元禄・享保期から京に新しくおこった儒学塾古義堂と関連して遊学への動きが形成され、一七〇〇年代後半には新たな古医方の展開にともなって一定の遊学者が輩出し、そして一八〇〇年代に入ってから大きな増加を示している。そしてその間、一八世紀には京遊一辺倒であったのが、一九世紀に入ると、大坂へその中心が移り、加えて紀州(那賀郡名手平山)の華岡青洲塾への遊学の増加も注目される動向である。

 塾の種類についてみると、全体の内、儒学塾へは六名で、医学塾へは一四名であり、その内二名は蘭学塾である。遊学目的の大半は医学の修得にあったことがうかがわれる。それは市域内に限っても医塾八名、儒学塾二名であり、同傾向を示している。その中で、最初にみられる遊学者は富田林の定吉という者であった。この定吉については、つぎのような「遊学願」が出されていることから知られるのである(富田林杉山家文書『御用留日記』)。

  乍恐以口上書御願奉申上候

一、私弟年十八ニ罷成候定吉と申者、当月廿一日、来ル十二月迄京都烏丸通錦小路堀元厚方ヘ遣シ医学致サセ申度奉願上候、御免被為成下候ハヽ難有可奉存候、以上

                                      河州石川郡富田林村願主 次左衛門 印

  右奉願上候通被仰付下候ハヽ難有可奉存候 以上

  寛保弐年戌四月                             同村庄や八郎右衛門 印

                                         (以下連署略)

御役所

 この定吉という若者の家は願主の兄の名からみても医家であるとは思われない。おそらく在郷町富田林の商職人の家の次男が新たに医をめざしたものとみられる。ちなみに京医堀元厚(一六八六~一七五四)は李朱医学に属した医家であるが、のち国学を大成した本居宣長が宝暦三年(一七五三)二四歳のときに学んだ医家でもあった。この定吉がその後どうなったかは不明だが、在郷町の地域内部から医家をめざすという新たな動きの最初の事例として注意される。

 つぎに市域内の遊学者で注目されるのは表116の五番目・六番目に記される西村允蔵である。農民でありながら儒学・医塾両方へ遊学したこの允蔵はどういう人であったのだろうか。その弟周助のことも含めて、伝統的な農民意識からの脱皮を試みようとしたこの兄弟のことについて素描しておきたい。