3 竹島浩庵と華岡流医学

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 享和二年(一八〇二)、富田林の倉内隼人は華岡青洲が紀州那賀郡に営む医塾春林軒に入門した。華岡青洲が麻酔の使用によって乳ガンを中心とした外科手術に成功するのは、文化元年(一八〇四)末であり、その名が知られ、門人が急増してくるのはそれ以降のことである。したがって、この倉内隼人が入門した享和二年というのは、青洲苦心の時期であり、門人も年に一人か二人という最も初期のことであった。そういう時期に倉内隼人はいちはやく青洲に師事し、以後、この地域だけでも四人の華岡塾入門者を生み、さらに河内全体で最多の二三名を数える華岡塾(大坂の合水堂をも含む)入門者の多くを誘い入れ華岡流医学が富田林に、そして河内全体に普及する上で大きな役割をもったのである。実はこの倉内隼人は医家竹島浩庵の長子であった。その竹島家は父祖憲庵以来、大坂から丹北郡川辺そして富田林と地域的移動を経ながら、多彩な学芸を蓄積してきた医家でもあった。隼人の華岡家入門をみるためには、この竹島家、とくに竹島浩庵と富田林との関わりをみておく必要がある。

 医家としての竹島家の祖は竹島憲庵(名重成、号憲庵、称藤馬)であるが、憲庵は享保元年(一七一六)京の古医方の主唱者後藤艮山(ごとうこんざん)に入門して医学を身につけ、また大坂の学問所懐徳堂の設立期の門人でもあった。竹島家の初代憲庵がこのように医学と儒学において、従来の閉鎖的で観念的な学問のあり方を批判し、庶民へ開放された新たな学問潮流に加わる人であったということは注目しておくべきであろう。この憲庵は大坂で医業を開いていたが、その養嗣となったのが復庵であり、復庵は宝暦四年(一七五四)河内丹北郡川辺(現大阪市平野区)に移住して医業を行うようになる。その復庵の長子が竹島浩庵(一七五四~一八二六)であった。竹島家と富田林の関わりは、この浩庵が富田林の名家として知られた倉内家(布屋)の女子を妻としたことによってはじまる。浩庵は父復庵といっしょに天明初年頃(一七八〇年代)富田林へ移住してくるのである。妻の実家倉内家の維持という問題も関わっていたらしいが、なによりも富田林が在郷町として発展していたことが新たな医業の地として有望視されたのであろう。その富田林で天明五年(一七八五)、父復庵の七〇歳を祝う賀会が催され、『慎独堂寿詞』(以下とくに断らない限り竹島家文書による)という祝賀の詩集が編まれた。その賀宴には、竹島浩庵の依頼で京から江村北海が来訪して祝った。北海は朱子学者であったが、賜杖堂という詩社をおこし、詩文興隆に力を注いだ。その著『日本詩史』『日本詩選』は、漢詩文の歴史の名著とされ、また『授業編』は教育学問論の古典である。北海はこのとき河村家の別荘縹緲楼で書を講じたりもした。西方寺中に建つ「楓家銘」と題する石碑は、河村家の先代のために、この時北海が撰書したものである。この復庵の祝賀には、北海をはじめ丹北郡一津屋の医家文人北山橘庵なども寿詞を寄せており復庵や浩庵の学芸交友が広いものであったことがうかがわれる。計二八名からの寿詞がみえるが、内一〇名は復庵のことを「先生」と称している。復庵は河内南部を中心に医家の門弟をも育成していたらしい。

 その復庵は寛政五年(一七九三)に富田林で没したが(享年七七歳)、その葬儀は儒教式で行われた。葬儀記録は「𥤥穸及吉凶二祭式」と題され儒葬であることを示し、いわゆる位牌も、儒教祭祀における神主(霊がよりつくとされるもので、仏教式位牌の原型)が採用された。しかもこれは復庵だけでなく同時に家祖憲庵にまで遡って神主がつくられた。すなわち、儒教による祖先祭祀への転換が行われたのでる。この改革を断行したのは復庵の長子、竹島浩庵であった。浩庵は自分の家を儒医の家としてとらえなおし、新たに医業を継ぐものとしての自覚を儒教に求めたのである。それは儒学を教養や道徳ではなく、祖先祭祀を行うことを通して、祖先と自己の生命の連続性を願う宗教としてとらえなおすことを意味した。医家としての新たな家のはじまりを憲庵におき、自らをその連続性の中に位置づけ、家の歴史と自己とを一体のものとして把握しなおそうとしたのである。これは浩庵が儒医としての主体性をはっきり示そうとした行為であった。この儒教への転換が、当時の富田林でどのようにみなされたかはわからないが、火葬や仏式位牌を廃し、土葬して神主を祭るというこの行為は、特異で思い切ったものだったにちがいない。そしてこのことは、竹島浩庵を独自な医家として認めさせる意義をもったものと思われる。竹島浩庵は寛政年間、杉山家「万留帳」(寛政三~文化一四年)の中の医療記事に、主治医的な立場で登場してくるのであり、富田林における有力な医家となっていくことが知られる。しかもその活動は医業だけでなく、杉山家の子女へ素読を教えたり、妙慶寺で講書したりもしている。そのような学芸活動に浩庵は大変積極的であった。浩庵は青年時、浪華混沌社の人々と交流をもち、また京の江村北海やその子清田龍川を「先生」と敬称しており、詩文にも強い関心をいだいていた。一部残される彼の詩文集『集義斉詩稿』(倉内家蔵)はほとんど富田林在住期のものであるが、それをみると、北山橘庵(丹北郡一津屋)・柘植中務(国分)・上田友謙(道明寺)・平田子順(野村)・桑野喜庵(太田村)など多くの南河内の在村知識人と交流をもっていた。浩庵自身も「幽皇詩社」という社を結んで、諸家と医学や詩文を論じあう場としていた。すなわち富田林に学芸を語り合う場が形成されてきたのである。浩庵の家は、「僑居は石川の浜にあり」とか、「茅亭、涼爽、河浜に近し」と詩の中にいっているので、石川に近く、しかも「近隣、新に醸す酒家の楼」ともいうように、酒蔵が並ぶ町端の石川を望む辺りにあったらしい。富田林の中には、そのような学芸サロンとして『集義斉詩稿』によれば、他に二、三の場があった。その一つは金河亭とよばれるもので、これは富田林の医家永田家である。もう一つは河村氏(屋号布屋・酒造業)の別荘悠然亭と縹緲楼である。とくに縹緲楼は知られたものだったらしく、大坂の金崎元永(尼崎屋七右衛門、豪商)が来泊したり、八尾周辺の学者たちがここをめざして遊行を試みたりしている。

写真218 竹島復庵墓碑 (西方寺墓地)
写真219 竹島浩庵寿像

 浩庵はこのように多くの文人との交友をもったが、享和二年の紀州行は、華岡青洲との出会いをもつことで大きな意味をもつものとなった。どのような事情で浩庵が青洲を訪ねたかはわからないが、非常に歓待をうけ学談を行った。浩庵は自らを「草奔独学」と称し、それに対し青洲がかつて京で学問を研鑽し、また詩文にも専心したことを賞揚し、紀州以外にもすでにその名が伝わっていたという。浩庵が訪問したとき、青洲は紀の川に舟を浮かべてもてなし、網で魚を捕って宴に饗し、夜に入ってからも月や風涼を賞して詩を吟じあったという(「花岡医国に与う」)。浩庵はこのときの出会いによって、青洲を息子を託すべき人物と認めたのであろう。

 浩庵の学問活動の特徴は、都市の権威ある学者や、書物的知識に頼らず、自分自身の眼で新たな学者や新たな薬方を見出していくという点にあった。そのため彼は晩年になっても諸国の学者を尋ね、新たな薬方を求めるための旅行を行ったりした。そういうあり方はおのづと在野に「竒士」「竒方」を見出すという方向をとったのてある。華岡青洲は、そういう中で浩庵が出会った代表的な一人であった。

 長男隼人はその享和二年直ちに春林軒に入門することになる。ところで長子隼人が倉内姓となっているのは、妻の実家に嗣子がなく、倉内家を継がせるつもりであったからである。さて春林軒は紀州那賀郡名手平山という紀の川沿いの現在でもかなり辺鄙な所にあった。ただし、富田林からは東高野街道を南下して紀の川沿いに行けば比較的近かった。京や大坂の著名医家でなく、まだそれほど知られていなかったこのような地の華岡家を師とさせたことは、浩庵の当時の医学界に対する状況認識と人に対する洞察があったことを示しているだろう。

 隼人の春林軒在塾は九年にわたったという(倉内家蔵「過去帳」)。青洲が麻酔薬を試み、乳ガン摘出をはじめとする手術に成功していくのは、ちょうどその間のことであった。隼人はその過程を眼前に目撃したにちがいない。隼人の残した医書の写本は数多いが、そのほとんどは青洲の口授の写本である。たとえば『外科正宗筆記』『乳厳発揮』『青洲先生整骨図説』『青洲先生治験録』『丸散膏方考』『華岡流穴痔金瘡奥秘』等々である。隼人が塾を終えるに際して、青洲はいくつかの医家の銘ともすべき書を書き与えているが、その一つに「守静館」と書かれた篇額がある。これは、隼人が帰郷して医家として独立するに際して、その医館に命名したものである。すなわち、隼人は以後、医家として「守静館」を営むことになる。

写真220 華岡青洲筆「守静館」額

 ところで隼人には一二歳年下の弟真人がいた。この真人は、文化一三年、青洲の弟華岡良平(号鹿城)が大坂中之島に華岡分塾として開いた合水堂に、その年に直ちに入門する。つまり隼人・真人兄弟は華岡青洲・鹿城兄弟にそれぞれ師事するという形をとったのである。

 父浩庵が二人の息子たちに医業を譲る意志を固めたのはちょうどこのころ、文化一四年のことであった。そしてその医業譲渡において、兄隼人に竹島家を継がせることにし、弟真人に倉内姓を継がせるという入れ換えが行われた。すなわち、この時点で倉内隼人は竹島隼人となり、竹島真人は倉内真人となるのである。

 それにしたがい、兄隼人は富田林を去って、竹島家のもとの本拠である丹北郡川辺に移って竹島家の当主を継ぐこととなり、また一方、弟の真人は合水堂修業後、富田林の倉内家には戻らずに、新たに交野郡野村に医業を開くこととなる。おそらく富田林も野村も東高野街道でつながっており、浩庵は京との往還のさい、何かのつながりを有していたのであろう。こうして兄隼人は竹島鳳庵と号して独立し、川辺に医館「守静館」を営み、弟真人は倉内樟庵と号して、医院「折肱(せっこう)堂」を交野郡野村に営むことになる。そしてともに最新の華岡流医学を普及することになるのである。河内の華岡流医家として知られ、「花岡さん」とさえよばれることがあったという。実際、薬の効能書などには「花岡製」と刷りこんだものが残されるし、また現に折肱堂の瓦当には「花」の一字が刻印されてもいる。

 こうして憲庵からはじまった医家としての竹島家の系譜は、当初、後藤艮山と懐徳堂という開かれた学芸運動に加わり、その実践においては地域的移動を経験しながら、浩庵の積極的な活動の中で、華岡青洲と出会い、その医学を摂取するに及んで、兄弟分立しながらもあらためて地域に定着した医療活動を展開することとなった。しかもその摂取において先駆的位置を占めたことにより、とくに河内における華岡流医学の普及において大きな役割を果たすこととなった。これ以後も種痘をはじめとして多彩な活動がみられるが、市域外のこととなるので措いておこう。

 竹島家の富田林在住期間は、結局、天明期から文化期にかけての約二〇年間ということになる。そしてこの期間こそ、浩庵の学芸活動と華岡青洲との出会いがあった最も重要な時期だったといえる。しかも、倉内家という富田林の町の発展をになった家が、こういう形で継続されたことも記憶されてよいであろう。