4 仲村家と学芸の支援

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 富田林仲村家につぎのような「覚」と題する一通の書状が残される。

      覚

一金子   拾五両

右温泉論上木料被思召寄永久之御恵幾久伝於不朽候

重而彫刻成就候ハゝ可入高覧候、以上

  文化八年          柘中務

    未四月廿七日       彰常(花押)

 仲村新右衛門 殿

 これは柘中務こと柘植龍洲(つげりゅうしゅう)(名彰常・字叔順・号龍洲、通称中務、文政三年(一八二〇)没、五一歳)が医書『温泉論』の出版に際して仲村家当主新右衛門(文政一〇年没、五九歳)から出版資金一五両を寄せられたことに対する受取礼状である。すなわち、在郷町の一商人が、医学者の研究出版を支援したものといえる。

 柘植龍洲は、河内国安宿郡国分の医家で、儒学を懐徳堂の中井竹山に学び、医学を京の浅井図南にうけた。その後大和高取藩植村侯の医官としても仕えた人である。国分に医塾先天堂を営む一方、その北の恩智に分館「折肱館」をも営み、地域的にも幅広い活動を行なった。その著『蔓難(まんなん)録』(享和元年(一八〇一)刊、五冊)は日本の蛔虫病の専門書として先駆的な労作とされるが、その「歴試」(治験例)のほとんどは中・南河内農村の人々の事例であり、地域民衆の実態に即した活動と研究のあり方がうかがわれるものである。

 さて、この『温泉論』は病気や懐胎における温泉の効用について論じたもので、とくに「子宮ノ疾患ニ対スル温泉ノ効力ヲ増加スルコトヲ図リシガ如キハ、特ニ挙ゲテ一言スルノ価値アリ。又人工温泉ヲ造リテ、温泉ノ普及ヲ企テシガ如キモ、ソノ功労少ナシトセズ」と評され(富士川遊『日本医学史』)、近世の温泉論では最もすぐれたものとされる。本書は付録共四巻三冊で、序文は文化六年(一八〇九)に江戸の杉本良仲ら四名が記しているが、刊記には文化丙子(一三年)春二月とあり、発行書林として「東都日本橋通一町目 須原屋茂兵衛 皇都寺町通御池上ル 三木安兵衛、浪花心斎橋南四丁目 鳥飼市右衛門」の三書碑が名を連ねている。しかし版心には「先天堂蔵版」と刻されており、実際には先天堂柘植龍洲自らの刊行であったと考えられる。

 本書には文化一二年九月の龍洲の自跋が付されている。それによれば龍洲が温泉の効能をさらに究めたいという志をもちながら、老病に阻まれ遅滞していたが、ようやく起筆したころ、富田林の仲村楊溪という人が訪ねてきてこの書を秘蔵しておくよりは刊行して世の中にその効能知識を普及させることの意義をのべ、それが天下の泉性についての認識をも惹起することになるとして、出版資金を提供し、ついに刊行することになったのだというのである。龍洲はこのように自跋で謝意をこめて富田林仲村楊溪すなわち仲村新右衛門のことを銘記したのである。本書は『享保以後大坂出版書籍目録』によれば、板元吉文字屋(鳥飼氏)市右衛門として文化八年四月に開板が出願され、同七月一八日に、許可されている。はじめに掲げた資金提供への受取礼状も文化八年四月二七日付になっていた。つまり仲村新右衛門の資金提供がこの四月になされ、それによって出版に踏み切るに至ったことがうかがわれるのである。

写真221 『温泉論』自跋

 仲村家がこのような医家への支援を行なった背景にはもちろん新右衛門その人の学芸愛好ということもあるが、柘植龍洲は、竹島浩庵とも親しく、富田林へしばしば来訪し、杉山家や仲村家の診療にあたっていたということもある。

 新右衛門の子甚太郎の「痘瘡肥立容躰扣」(文化六年)や文政元年の「おやそ痘瘡諸事控」に「国分先生」「国分柘氏」として、その来診が新右衛門の手によって記されており、医師と患家との関係が形成されていたことは確かである。また享和元年八月から九月にかけて一家で有馬温泉湯治に出かけているが、龍洲が『温泉論』中で最も高く評価しているのが有馬温泉であり、あるいはその勧めによったものかもしれない。

 このように在郷町富田林の一酒造家が患家と医家という交わりだけでなく、それを基礎とする信頼関係の中で、その医家の研究・出版活動への支援を行なっていたという事実は注目されよう。

 こうして『温泉論』は支援によってはじめて上梓され、医学史にも名を留めるものとなったのである。この新右衛門や柘植龍洲には在郷町がたんに医学・学芸の受容拠点としてだけではなく、新たな医療・学芸情報の発信地としての意義をも担おうとしていた姿勢が感じられるのである。

 この新右衛門と柘植龍洲の関係によく似た事例をもう一つ挙げておこう。それは宇津木昆台『古訓医伝』と富田林仲村徳平(名は休)との関係である。宇津木昆台は名古屋の生れ、京に学んで古医方家となり大成した人である(嘉永元年(一八四八)没、七〇歳)。

 その集大成が主著『古訓医伝』二五巻である。その論は『傷寒論』を読み直し、風・寒・熱を万病の原因として察病治療の八条目を示し古医方の医論を整理体系化したもので、「昆台ノ斯説(このせつ)出ヅルニ及ビテ、ソノ説初メテ整頓スルニイタレリ」。と評される。昆台も自ら「独リ長沙氏之書ニ據リ以テ之ヲ病者ニ徴スルコト殆ント四十年」(序文)とのべている。そうして集成された『古訓医伝』の稿本は「吾党之訓導」となってきたという。「吾党」とは昆台の医塾平安視別軒で学ぶ者たちのことであろう。続いて昆台の序文は「門人仲村休之(これ)を公(おおやけ)ニシテ以テ後昆ニ伝ンコトヲ請(こ)フ。固辞スレトモ可ナラズ。遂ニ之ニ医学警悟六巻・風寒熱病方経篇七巻・同ク緯篇七巻・薬能弁五巻ヲ授ク。通計二十五巻。名ツケテ古訓医伝ト曰(い)フ」と(天保七年(一八三六)一一月昆台自序)、すなわち門人仲村休の懇請によって出版されることになったことを告げている。そして『古訓医伝』巻一・医学警悟第一には仲村徳平休による古訓医伝跋が付されている。

 その跋によれば医家の多くが学業を怠り、誤りを隠して患者の死を招いたり、軽病をして重病に陥入らせ、病家の疑いを招くような実状を慨嘆し、師昆台が「人の疾苦を救ふを医道と為」してきた姿勢を挙げて、その著『古訓医伝』が「実病に親験するもの」で、同時にだれもがよみうる和文で綴られており、それが散失することを恐れ、しばしば昆台にこれを出版して普及させるよう進言し、ようやく許しを得たという。最後に「天保丙申冬十一月 門人 河内富田林 仲村休 謹誌」と署名している。

写真222 『古訓医伝』跋

 これによって富田林の仲村休が昆台の許しを得てこれを刻に付したことが知られる。なお播磨佐用の門人船曳尚綗の記す跋文にも「之を社兄仲村徳平に授く、徳平その伝の弘からさることを惜み、固く請いこれを世に公にす」と記されており、休すなわち仲村徳平であることが知られる。富田林仲村徳平は宇津木昆台に深く師事していたことが明らかである。全二五巻の刊行が成ったのは天保一二年であった。

 仲村徳平はかくして『古訓医伝』という医学史に残る大著を世に出す上で大きな役割を演じたのであるが、残念なのはこの徳平について今ほとんど知ることができないことである。この徳平家はさきの仲村新右衛門の弟で徳平休の父方義が分家して出来た家で、新右衛門は徳平休からすると叔父に当る。徳平は叔父新右衛門から文化的な影響をうけることが多かったのではなかろうか。宇津木昆台が『古訓医伝』巻二五「温泉弁」の中で、さきの柘植龍洲の『温泉論』を非常に高く評価していることも何か関わっているかもしれない。ともに俳諧を嗜んでいたことを示す刷物もある。とくに仲村新右衛門の三回忌に際して、他の多くの人が歌句を寄せているのに対し、この徳平のみは漢詩を寄せていることは注意される。漢学をも本格的に修めていたことが知られるからである。したがって『古訓医伝』の出版も、たんに経済的支援というだけでなく、はっきり「門人」と記していたように自分の学問関心からする支援であったといえよう。この徳平については今ほとんど知ることができない。わずかに「釈善学墓」と刻された墓碑が残されるのみである。この戒名はおそらく生前の人となりに因んでつけられたものであろう(西方寺嘉永六年没、五二歳)。

写真223 仲村徳平(釋善学)墓 (西方寺墓地)

 こうして学者の重要な著作を、在郷町の商人知識人が自らの学問への関心を基礎に、資金援助をすることによって出版にもたらしたのは、在郷町自体の経済的文化的な力量としても顧られるべきであろう(山中浩之「在郷町における医家と医療の展開」(『大坂と周辺諸都市の研究』所収))。