5 森田節斎と吉田松陰の来訪

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 嘉永五年(一八五二)、佐渡屋徳兵衛家(仲村家)では、泉州熊取の岸和田藩大庄屋中家との間に婚姻が取り結ばれた。しかし同年末から両家との間に行きちがいが生じ、複雑な事態が生じていた。翌六年二月に至り、佐渡屋では中家当主中左近(瑞雲斎)とも同じ尊攘派学者として面識があるということで、大和五条の学者森田節斎に、調停を依頼することになった。森田節斎(文化八年~明治元年(一八一一~六八))は頼山陽の高弟であり、その後、江戸昌平黌にも学んだ学者である。一時、京に私塾を開いて活動しており、当時、名高い学者であった。

 この森田節斎は、佐渡屋徳兵衛の叔父増田久兵衛と同郷であり、増田家とはかなり親密であったらしい。二月一四日、森田節斎は増田久兵衛と同道して佐渡屋を訪れた。佐渡屋の日記「年中録」には「二月十四日ゟ熊取縁談之掛合用ニ付五条増田氏并ニ森田節斎先生同道入来被下候」と記される。

 しかしこのとき、森田節斎は一人の青年をいっしょにつれてきた。「年中録」にはそのことがみえないが、別の一記録には「森田に付添、罷越(まかりこし)候長洲浪人吉田と申もの両人有之候所、長滞留被致」と記される。これは吉田松陰のことである。松陰はこの嘉永六年、脱藩の罪を許され、遊学の許しをえて江戸へ赴く途中にあり当時二四歳であった。松陰がこのとき、どうして節斎とともに佐渡屋を訪れることになったのか。

 松陰が長州萩を発足したのは正月二六日で、海路を大坂に着いたのは二月一〇日であった。かれが大坂で最初に訪問した人物は坂本鉉之助であった。鉉之助は萩野流砲術家坂本天山の子で、当時玉造口定番与力、桃谷に屋敷を与えられ、砲術教授も行なっていた。とくに天保八年(一八三七)大塩平八郎の乱にさいし、その砲撃によって乱鎮圧に功績をあげ、広く名が知られるに至っていた。松陰ははるかにその名を聞き、防備・軍事への関心からその人に会おうとしたのであろう。翌一二日には高津宮に参詣したあと、松陰は大和五条の森田節斎を訪うべく急いだ。節斎の門人で、松陰も先年、奥羽で会ったことのある江幡五郎(のち那珂梧櫻)という人から頼まれたことを節斎に伝えることが一つの目的であった。しかし当然、頼山陽の高弟として聞こえ、海防や尊皇思想に関心深い節斎その人に会い、教示をうけることに大きな期待を抱いていたであろう。

 松陰は平野から大和川を渡り、一面に菜種と木綿を植えた風景や、家々で織る河内縞にも目を向けながら藤井寺・古市を経て、竹内街道を通り、二上山を越え、竹内で一泊した。その日の詩に「一日三州(摂津・河内・大和)の路を踏む、摂を出て、河に入り、大倭に入る」とよんでいる(「癸丑遊歴日録」)。翌一三日は、しのつく雨の中を発足、「風雨・蓑笠を侵し、残寒、粟、肌に生ず」と詠じながら新庄を通り、行程六里、漸く五条に達し、医師堤孝亨宅においてはじめて節斎に会うことができた。節斎は当時四三歳、意気軒昂なときであった。そのときの会話は「夜半に至り、快甚し」と松陰の日記には記されている。翌一四日、節斎は、前述したように富田林佐渡屋徳兵衛家からの依頼の約束もあり、出向かねばならなかった。前日に遠路を着いたばかりの松陰はまた節斎に従って富田林へ同道することになったのである。「十四日、晴、節斎に従ひ、錦部(石川の誤り)郡富田林一富豪家仲村徳兵衛家に至る。増田久左衛門〈マゝ〉もまた従ふ。五条駅を出でて千窟(千早峠)を登る。山頗(すこぶ)る高峻、千窟城(千早城)は陬に在り、金体(こんたい)寺・赤坂・嶽山(だけやま)数砦、前に列なり、連珠の塁を為(な)す。山を下(くだ)れば即ち千窟村(千早村)、村を過ぎ富田林に至る」(同上)と日記に記している。松陰は前日、大坂から五条に着き、すぐにまたこの朝、五条から千早を越えて富田林へ来たのである。まことに精力的な健脚ぶりである。松陰としてはしばらく節斎のもとに滞在し、その話を聞くつもりであったろう。ところが、節斎は富田林佐渡屋の依頼で出向かねばならず、やむなく同道を促したのである。さて佐渡屋に着いてから、何をしていたのか。二三日まで一〇日間、「長滞留」したのである。

 松陰の日記によれば二月一五日、松陰らは佐渡屋に所蔵されていた董其昌(とうきしょう)・趙礼叟(ちょうれいそう)などの中国の書、また空海の書や雪舟の画く龍虎図などをみた。松陰も「みな希覯なる者」(まれにしかみることのできないもの)と記し、節斎も甚だ賞嘆したという。またこの地域を領する伊勢神戸藩では財政困難に陥入り、農民たちに一〇〇両出せば苗字大刀一代を許し、一五〇両出せば苗字世襲・大刀一代を許し、二〇〇両出せば苗字大刀世襲などという新令が出されたことなどを日記に書きとめている。

 一六日には安芸角力緋威(ひおどし)のこと。また若狭小浜の僧琅山から明徳説を聞いたと記す。そういう角力取や僧侶が富田林に来ていたのであろうか。この日は他に象戯(将棋)師や碁の本因坊のことなど書きつけている。一七日にもとくに出来事らしいものはなかった。ただ、「河泉の間、女工甚盛ん、男子もまた閑あれば則ち綿を紡ぐ、また一奇也」と記しているのが注意されよう。長州の農村とくらべてそういう光景が特異にみえたのである。この間の記事はこういう趣であり、偶然の閑暇を楽しみながら佐渡屋に滞在していたように思われる。

 ようやく二三日、松陰は節斎に従い、岸和田に赴いた。佐渡屋からの依頼で、相手方中家が岸和田藩大庄屋であることから、岸和田藩の家中の人に相談するためであった。節斎らは岸和田藩儒相馬一郎(号九方)を訪ねた。その六里の道中での節斎の詩の一節には「他日忘る勿(なか)れ、河内路、輿(よ)中輿外(駕籠の内と外とで)共に文を論ず」とみえる。おそらく節斎が駕籠にのり、松陰はその旁らを徒歩で従い、河内の風景をみやりながら、議論しあったのであろう。かれらは佐渡屋の依頼で相談するために赴いたのであるが、またその地の学者と議論することに目的はあったようで、三月三日まで岸和田に滞在し、それから堺に、また熊取の中家出入の医師左海祐斎に掛会ったりした。その間も、松陰は節斎に同行していたのである。そうして三月一八日、二人は再び富田林佐渡屋へ帰着する。その後、四月朔日に大和へ出立するまで二週間ほど富田林佐渡屋に滞在していたことになる。この間、どう過ごしていたのかについて日記にはまったく記事を欠き、他にもうかがうべき史料がない。その間、節斎や松陰が、のち天誅組河内勢につながる周辺の人々に尊皇攘夷の考えを教導していたという推測もありえよう。しかし、ペリー来航やそれにともなう攘夷論の高揚はこの後であり、しかも天誅組の乱のおこる文久三年(一八六三)は一〇年後のことである。その時にまでつながる影響を、この短期滞在中に見ようとするのは過大視にすぎるといえよう。

 松陰は、節斎と一たん別れ、四月一日に出立して、大阪へ立寄ったあと、再び大和へ赴いた。松陰は、五條にしばらく滞在したのち節斎の紹介で、八木の聾儒谷三山を訪ね、筆談を行った。その後、奈良、伊勢・津を経て、六月五日、江戸に到る。ちょうどそれはペリーが軍艦四隻を率い浦賀に来航したときであった。それを眼前にした松陰は、また新たな思想と行動へと向かうことになるのである。

 なお佐渡屋徳兵衛(信道)は、松陰より一歳上の二五歳で、松陰と語り合うにはちょうどの年齢であった。しかし残念ながらその形跡を今見出すことができない。ただし、徳兵衛信道に忘れがたい印象を与えたことも確かであったようだ。松陰は、安政六年一〇月二七日江戸で斬首されるが、その直後、四十九日に当たる一二月一四日に、谷三山宅で追悼の催しが行われた際、その出席者の中に佐渡屋徳兵衛の名も見出されるからである(卜部和美『谷三山と吉田松陰の出逢い』)。

 松陰はこの河内・大和における八〇日間を、生涯最良の時といったが(嘉永六年五月二四日付、杉梅太郎宛書簡)、富田林滞在は、行動から行動へと自らを駆り立てずにはおれなかった松陰の、わずかに有した比較的心安らかな時間であり、師友との出会いを含めてしばしの充電期間であったように思われる。それはいいかえれば富田林が、学問好きの若い浪人をいぶかることもなく厚遇するという文化的包容力をもっていたということを語ってもいるだろう。