寺子屋形成の前提

852 ~ 854

「手カク事、男ノ第一ノ芸也」。こう語ったのは元禄期、大ケ塚に住んだ河内屋可正である。可正は能や俳諧の修得の意義についても説いたが、まずその前に基礎となるべき「芸」は、「手カク事」すなわち読み書きの能力だとした。「形ヨシト見ユル人モ、無筆悪筆ナレバ、見ヲトサルゝ物也、旁々(かたがた)ヘノ書状ノ取遣(とりやり)、日記帳面、手カゝズンバ成(なる)ベカラジ。進退(身代)ノ能(まさ)者モアシキ者モ、渡世ノ暇(いとま)アラバ随分手習スベシ」(『可正旧記』巻七)と記しており、「手カク事」は、生活技術としての「芸」の中でも最初にすえられるべきものであった。

 さて、可正が「手カク事」とあわせて強調したものは「算用」である。「算用ハ一切ノ用ニ立テ、士農工商共ニシラデ不叶物也、是ヲシラザル者ハ心ノ落着(おちつき)成リガタシ、所帯方ニウトカルベシ、諸人是ヲ必ズ習ベシ」という。「算用」によって得られる「心ノ落着」とは、生活や経営を計算によって計画化することで得られる心の安定である。「商ひと耕作を車の両輪の如く」に営むことを在郷町地域の人々にふさわしいあり方とみていた可正にとって、読み書き算用の能力をもつことは、家産の維持運営において何よりも必要とされた「芸」であった。

 たとえ没落の危険にさらされようと、読み書き算用の能力があれば、手習師匠となることもまた商家奉公人となって上昇しうることも可能だというのである。そして実際、そのような状況に陥入りながら、手習師匠となって渡世を支えた者たちの例をも挙げている。それは一面で手習師匠がそれ自体でまだ自立した性格をもつに至らず、家産を失った者の転職という形でみられているが、しかしまたその人々の渡世を支えるほどの手習の需要があったことも示していよう。近隣地域である古市郡駒ケ谷村では、正徳二年(一七一二)「子共手習指南」のため、村の責任で師匠を招請したいという願いを出すような動きもみられたのである(『羽曳野市史』史料編二)。

 富田林市域における、この時期の寺子屋などの施設についてはっきりとは確認できないが、前述の享保五年(一七二〇)の前句付俳諧『仕合丸』の中に、たとえば「戸障子(としょうじ)のいの字で親の戎顔(えびすがお)」(「八歳而入小学門」)という、明らかにわが子が手習いに行きはじめて、「い」の字を書いてみせたことをよんだ句がみえ、他にも「夫/\(それぞれ)に時宜は味やる手習子」「実語教上ケると中と一度也」というような句もみられ、寺子屋的施設が存在していたことが示されている。

 一八世紀に入れば地域の多くの村々では、在郷町富田林をはじめ、すでに基本的には夫婦と少数の子どもを中心とした小家族形態となっており、そのことは一人一人の子どもに対する養育と教育を手厚くする傾向をもたらしはじめたであろう。一八世紀以降多くみられる子育て行事に関する祝儀帳の残存もそのことを語っている。そしてもちろん、商業活動の展開と、文書主義という近世社会の伝達システムの高度な展開は、そういう一人一人の子どもに、読み書き算用能力を身につけさせることによる社会的能力の向上を必要と意識させるようになっていた。このような意識は、在郷町を中心にもつこの地域では、人々の生活意識の中におのづと形成されてきたと考えられる。

写真224 天保6年『河内往来』