寺子屋の全体的動向と筆子塚

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さて、本地域ではそのような読み書き算用を主とする寺子屋的教育施設は、一七〇〇年前後のころから、すでに現われはじめたようであるが、一般的にはいつごろから、どの程度、形成されてきたのであろうか。現在、確認しえたものを表示してみよう(表117)。なかには寺子数その他が一応知られるものから、師匠名や寺院名のみしかわからないものまで、精粗さまざまであるが、現在、一応五六件を確認しえた。これは非常に多い数である。市域二七カ村にほぼくまなく分布し、なかに複数の寺子屋の存在した村々がいくつもある。

 そのさい、やはり『日本教育史資料』所載の寺子屋表は明治初年の調査で、その記載内容が幕末維新期にほぼ限られ、しかも脱漏が甚だ大きいとはいえ、師匠名・寺子数・開業年代などをまがりなりにも記していることは有益である。しかしそれによって知られる寺子屋は一三でしかない。五六の内、文書による確認が四件あるが、最多を占めるのは筆子塚の調査によって新たに確認されたものである。

 筆子塚は計二三基見出したが、その内、四件は従来の文献にも記されていたもので、一九件が新たに確認されたものである。

 なお筆子塚とは、寺子屋師匠がなくなったとき、その師匠に習ったものたちが、師の墓を建立したものである。ほとんどの場合「――先生之墓」と墓石正面に刻まれ、その基壇に「門弟中」「寺子中」等々の刻字がみえ、側面や裏面には俗名や没年が記されている。なかには辞世の句や碑文、さらには塚を建てた世話人たちの名が刻字されていることもあり、一見してそれとわかる形式をもっている。この筆子塚は師匠が地域に定着して長期間にわたって教育活動に携わっていたことを示す遺物資料であり、地域における寺子屋の自生的形成や持続的活動を考える際の一指標たりうるものとして貴重である。筆子塚は、寺子屋修学後も、寺子と師匠との人間的結び付きが長く続いたことを示すものであり、学校制度下ではほとんどみられなくなることからいえば、寺子屋における師匠と寺子の関係のあり方をも示唆している。

写真225 筆子塚 (大池先生、平・新家墓地)

 その他、南河内郡東部教育会編『郷土史の研究』が、記述は簡略にすぎるけれども、一応の参考になる。というのも本書は大正一五年(一九二六)の刊行で、この当時にはまだ寺子屋経験者の一部は存命中であり、そういう人々からの調査に基いて書かれているとみられるからである。

 表117はこれらの資料を中心にして作成し、村別に配列したものである。一見してわかるように数の上では喜志村が非常に多く、富田林・新堂・大伴・錦郡等々と続く。師匠の身分が判明するものは多くはないが、『日本教育史資料』で「平民」と記されるものが最も多く、神職・僧侶がそれに続く。「平民」は実質的には農民と商人を含んでいようが、形式的身分としてはこの地域では農民であったとみてよい。なお身分不明が多いが、大半は同じような意味で「平民」であったとみられる。

表117 富田林市域の寺子屋・私塾
所在 名称 教科 師匠名 身分 寺子数 年代 備考
①石川郡喜志村(桜井) 平井先生 文政元年(1818)9月建基 筆子塚調査(喜志新墓地)
②同(宮) 青谷陸奥守正慎 神職 天保2年(1831)7月28日没 同上(宮町墓地)「門弟中」
③同(宮) 青谷播磨守忠賀 安政6年(1859)9月晦日没 同上(同上)「寺子中」
④同(宮) 魁春堂 算術・読書 青谷忠照高靹 38 男25 女13 慶応2(1866)~明治5年(1872) 教育
⑤同 清水先生 天保4年(1833)2月12日没 筆子塚(喜志新墓地)「門弟中」
⑥同 浅野先生 天保5年(1834)5月建墓 同上(平・新家墓地)
⑦同(川面) 岸先生(治良兵衛) 天保14年(1843)3月建墓 同上(川面墓地)「弟子中」
⑧同(同) 岸先生(紋治郎) 安政3年(1856)2月建墓 同上(同上)「弟子中」
⑨同 柳井先生(七良兵衛) 天保14年(1843)6月建墓 同上(喜志新墓地)「門弟中」、柳井家文書
⑩同 島石先師 慶応2年(1866)正月建墓 同上(川面墓地)「門弟中」
⑪同 土井先生(太右衛門) 明治5年(1872)7月建墓 同上(同上)「門弟中」
⑫同 算術・読書 大池利平 平民 25 男16 女9(30・14・16) 安政2(1855)~明治5年(1872) 教育・筆子塚(平・新家墓地)明治15年没
⑬同 九皐堂 算術・読書 村上専庵 平民 25 男15 女10 慶応2(1866)~明治2年(1869) 教育
⑭同 光月(明)堂 算術・読書 副田智海 僧侶 80 男55 女25(139・86・53) 明治元(1868)~明治5年(1872) 教育
⑮同 香川先生 明治16年(1883)3月建墓 筆子塚(宮町南墓地)「門弟中」
⑯同 寺元先生 明治35年(1902)9月建墓 同上(喜志新家墓地)「門弟中」
⑰同 神谷九登 神職
⑱同 伊藤圭吾
⑲同 平井儀三郎
⑳同 柳井弥三郎 往来物識語
㉑同 高田謙三
㉒中野村 坂上智海(正受寺) 僧侶
㉓新堂村 久保太右衛門正信 万延元年(1860)5月建墓 筆子塚(新堂大工町墓地)「弟子中」・郷土
㉔同 算術・読書 中島健治 40 男25 女15 慶応2(1866)~明治5年(1872) 教育
㉕同 円光寺 珠算・読書 樹林了現 30 男20 女10 明治2~明治5年 教育・郷土・百年史
(56・47・9)
㉖同 斯波先生 郷土
㉗同 豊澤先生(大谷勝七) 明治17年(1884)2月建碑 筆子塚(若松町墓地)「門弟中」琴・三絃の師匠か。
㉘同 中橋菊五郎 明治22年(1889)6月建碑 筆子塚(同上)「学生中」
㉙同 裁縫 裁縫師松谷菊 明治45年(1912)2月建碑 同上「門弟中」
㉚富田林 中島先生 文政10年(1827)2月26日没 筆子塚(西山墓地)「門人中」
㉛同(東林町) 算術・読書 岸平七 平民 130 男50 女80 文久3(1863)~明治5年(1872) 教育・郷土
㉜同(堺町) 好文堂 算術・読書 久保利吉郎 平民 150 男100 女50 慶応年間~明治5年(1872) 教育・郷土・筆子塚(西山墓地)明治9・12・9没。「門人中」・辞世あり。
㉝同 大松系斎(至高) (24 男21 女3) 郷土・百年史
㉞同 杉山要助 平民 寛政~文化期 杉山家「万留帳」「年中録」
㉟同 儒学 竹島浩庵 天明~寛政期 杉山家「万留帳」「年中録」
㊱同 手習・謡曲 中村三右衛門 天保~安政期 仲村家「年中録」
㊲同 手習・謡曲 田守三郎兵衛(政隆) 安政期 田守家文書
㊳毛人谷村 浦田次平 郷土
㊴北大伴村 漢学 石水先生 天明~寛政期 郷土・墓碑 文化3年8月没(54歳)
㊵同 書道・華道 仲尾又兵衛 天保期 郷土
㊶同 釈志胤法師 弘化4年(1847)5月建墓 筆子塚(同上)「門弟中」
㊷同 林又兵衛
㊸南大伴村 通称不明(釈教順) 文政2年(1819)12月28卒 筆子塚(南大伴墓地)「文字中」
㊹別井村 読書 松村八十八 平民 60 男48 女12 天保13(1842)~明治3年(1870) 教育・筆子塚(南別井墓地)「松村先生墓」
㊺佐備村 読書 日東喜太郎 30 男25 女5 文久3(1863)~明治5年(1872) 教育・郷土(観音寺・薬師寺に於てすと)
㊻甘南備 読書・算術 松尾春三 35 男20 女15 明治元(1868)~明治6年(1873) 教育・甘南備墓地
㊼錦部郡 板持村 片岡徳左衛門 郷土(大念寺において)
㊽彼方村 土井又右衛門 (45・30・15) 郷土・百年史(僧晃山が自坊西光寺において)
㊾嬉 不詳 田中家文書
㊿横山 東尾利平 郷土 心学講舎有慶舎都講
(51)廿山村 山本先生 慶応2年(1866)8月建碑 筆子塚(廿山墓地)「門弟中」
(52) 大日堂 読書・算術 松浦源一 32 男22 女10 明治2(1869)~明治5年(1872) 教育・百年史(松浦氏、明治5年に22歳、極楽寺借用とす)
(100・75・25)
(53)同 木下清吾
(54)同 塔本重衛門
(55)同 山本宗顕 郷土
(56)錦郡新田 神宮寺 読書・算術 奥井貞治 平民 65 男47 女18 明治元(1868)~明治5年(1872) 教育・百年史(奥井は、明治5年に34歳)
(40・33・7)

注)教育=『日本教育史資料』 筆子塚=市域内の墓地調査による確認。
  郷土=南河内郡東部教育会編『郷土史の研究』(大正15年) 百年史=『大阪府教育百年史』 富=『富田林市誌』
  なお寺子数の内、( )内は、郷学校の生徒数を参考として示したもの。

 開業期間が一応知られるのは『教育史資料』にのせられている一三の寺子屋である。それらはすべて幕末・維新期に集中している。しかもその内一一校は明治五年の学制によって寺子屋廃業を余儀なくされたものといえる。つまりそのために寺子屋としての活動期間が短期で終わらざるをえなかったのである。学制発布以前に活動期間が完結しているとみられるのは南別井の師匠松村氏のみである。その松村氏は天保一三年(一八四二)開業、明治三年(一八七〇)廃業となっている。約三〇年間の活動である。すなわち、一人の寺子屋師匠の活動は急な変化がない限り、その年数ほど持続されたのではないだろうか。富田林の師匠中村三右衛門の場合でもやはり天保期から幕末にかけての三〇年間ほどとみられる(『仲村家年中録』)。

 そうしてみると、開業期間ははっきりしないが、筆子塚によって没年が知られる師匠たちの活動期間もおよそのところ想定されてくる。没年から遡ってほぼ三〇年間ほどを活動期間と想定してもよいのではないだろうか。こうして筆子塚の没年から師匠たちの活動期を想定したものと、『教育史資料』によって開業期間の知られるものとを合わせて表示すると図のようになる。これによって本地域におけるおよその寺子屋の形成・普及の動きがうかがわれよう。すなわちそれは、寛政期ころに形成期があり、化政・天保期へと継続的に発展し、そして幕末期における急増という動きがみてとれるのである。

図34 寺子屋の活動期

 以上、全体的な傾向であるが、しかし、個々の村々における差違も大きい。

 村の規模のちがいや不明脱漏、また一村内でも各師匠によっての年代的相違もあり、たんに総数のみからみることは適切ではない。それでつぎにいくつかの村々について少し具体的に寺子屋の動向を検討しておきたい。