喜志村の動向

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喜志村は合計二一の寺子屋を数える。青谷氏や岸氏・柳井氏のように代続きのものを一校とみても一七を数える。これは極めて多い。一村の寺子屋数としてはおそらく全国的にみても異例の数であろう。ちなみに『教育史資料』にみられる河内国の一村当たり寺子屋平均数は〇・四一余である。喜志村の多さは村高二一四八石で宮・大深・桜井・川面という各株からなる大村であることにもよる。また各寺子屋に年代的相違や、二代・三代と続いた寺子屋があるためでもある。しかしそれでも幕末維新期の一定時期においても一〇以上の寺子屋が同時に併存していたといえる。そうして二一の内、一三については筆子塚が確認されたことも貴重である。筆子塚は先述のように師匠が長期間にわたって地域教育に携わったことを証するものであり、地域における寺子屋の自生的形成を考える上での一つの指標たりうるものである。その意味で最も早い例である文政元年(一八一八)没の平井先生が注目される。その活動期は寛政・文化年間(一七八九~一八一七)にあったと考えられよう。つまり寺子屋の最も早い自生的形成が寛政期頃(一八世後半)にあったのではないかとみられるのである。その後、喜志村では天保年間に没した師匠の筆子塚が五基確認される。それらの師匠の活動期は文化年間(一八〇四~一八一七)から天保期(一八三〇~一八四三)にかけてであったとみてよいであろう。次の一群は安政から明治期にかけて没した師匠たちで、その活動期は幕末・維新期を中心にしており、数としては最も多く一〇名以上とみられる。つまり、寛政期に自生的形成がみられ、天保期にかけて確立発展期があり、そして幕末期に大きな増加を示すという動きである。市域における寺子屋の動向を代表しているといってもよい。

 この喜志村の幕末維新期の寺子数が『日本教育史資料』によって確認されるのは四校である。合計一六八人、男女比はおよそ二対一の割合である。この寺子数は当時の就学程度としてどの程度のものであったのか。しかしこれを正確に割り出すことは史料的に困難である。

 仮に寺子屋調査に近い明治二年(一八六九)の人口一五〇八人を基準に考えてみよう(「石川郡二四カ村明細帳」『富田林市史研究紀要』四)。この内、寺子屋就学に相当する年齢人口はどの程度であろうか。それを示す史料はない。明治学制期には八歳から一四歳までが学齢児童とされ、その人口に占める割合は、明治八年の「文部省第三年報」によれば、当時市域が含まれていた堺県の場合、一五%と見積もられている。仮にこれによって明治二年の学齢人口を計算すると、一五〇八人×〇・一五=二二六人となる。これに寺子数一六八人の占める割合を計算すると七四・三%という数値が得られる。この数値はもちろん実態ではなく、目安にすぎない。しかもこの目安にもいくつかの問題点を含む。まず一つは学制による学齢期間は寺子屋就学期間より長期である。一般に寺子屋就学期間は平均五年間ほどであったといわれる。そうすると寺子屋学齢人口はもう少し低く見積もってもよいこととなり、就学率はより高くなる。二つは、当時の喜志村では寺子数の知られる四校以外に幕末維新期に確実に存在した寺子屋が他にいくつかある。したがって寺子数は全体としてもっと多かったことはまちがいない。そうすると就学度は非常に高くなってくるのであるが、それも一概にはいえない。つまり喜志村の寺子屋へ通った寺子たちは、喜志村内のものに限らなかったと考えられるからである。どこからの通学者が多かったかはわからないが、喜志村周辺の村々、とくに中野村は一つの寺子屋しか確認されていない。他村から喜志の寺子屋へ通ったものは相当数に上ったにちがいない。

 そうすると、喜志の寺子屋の寺子数は全体としてもっと多かったことはまちがいないが、他村からの来学者の存在を考慮すると、喜志の子どもたちの数からだけでは、就学度を推し測ることは危険であるということになる。寺子数はもっと多かったが、就学度はさきの目安よりは低くなる可能性もある。しかし、喜志村における寺子屋の多さからみて、かなり高い就学度であったことはまちがいない。筆子塚だけで一三も本村域からは確認されているからである。

 この喜志村における寺子屋・寺子数の多さは、たんに大村であるからというより、石川舟運が喜志浜をターミナルとし、竹内街道などにも近接し、在郷町富田林や古市に近く、そして大坂にまで続く商品流通の一起点ともなっていたという事情はやはり大きいであろう。そしてそのことは数の上だけではなく、学習面にも一定の特徴を付与していたようである。

 慶応三年(一八六七)にこの村の土井たきという女児が書き残した「浚書(さらえがき)」がある。「浚書」は寺入りして以後、師匠がそれぞれの子どもに応じて指導した手習いの一連の課程を修了の段階で寺子が全部清書しなおして呈示したものである。たき女の浚書の内容順序をみるとつぎのようである。

 いろは・数字・季節の挨拶状・十二支・色名・季節名・天候・借用証文・貨幣の種類・荷物受取状・名頭・石川郡村名・古市郡村名・錦部郡村名・丹南郡村名・安宿郡村名・志紀郡村名・丹北郡村名・小作請負証文・田地譲り渡し証文・京名所。以上のような順序でかなり稚拙な字で書き写されている(富田林市史編集係所蔵文書)。一五丁、三〇頁。かなりの量である。所々に脱字や誤字があり、師匠がひとつひとつ丁寧に朱で訂正を加えている。そして末尾に師匠は朱でつぎのように奥書きしている。「今般拙門初学より習取之手本、不残浚書為致(いたさせ)候處、殊の外見事ニ出来申候、乍去(さりながら)抜字或ハ書誤リ等有之分ハ逸々相改、世の人々江可令披見(ひけんせしむべき)もの也」と。「初学より」といっているから、これは寺入り以後の長期にわたる手習いの集成であった。その学習成果を親をはじめとする人々にこの浚書によって披露させたのである。

写真226 土井たき「浚書」(市史編集係所蔵文書)

 ところがこの浚書の内容をみると、最後に「京名所」があるものの、とくに女子向けという課程ではなく、男子と同じように金銭や田畑に関する証文類を一中心として学んでいることが注意される。女子もこの地域では家業経営に関わる知識を要請されていたようにみられる。一般に手習いの順序は、いろはからはじめて、数字・名頭・村郡国名へすすみその後は男子の場合は商売往来や百姓往来のような実用的往来物へ、女子の場合は、女大学・女今川・百人一首・そして浪華名所・京名所のような名所ものへすすむことが多かったとされる(乙竹岩造『日本庶民教育史』)。たしかにこの地域に残される嫁入りの持参目録にみえる書物は女大学と百人一首であることがほとんどである。土井たき女も嫁入りには一応そういう書物を持っていったかもしれないが、寺子屋で習った内容はもっと家業に関わる実際的な内容であった。

 また喜志の寺子屋師匠柳井氏は少なくとも文政期から活動のみられる師匠であるが、同家に一部残される往来物は郡村名尽・消息往来・江戸往来などの一般的なもののほか、『算法稽古』(文政六年写)・『数学釣深録』(柳井七良兵衛写)・『普請積り方控日記』(弘化四年)・『算術之稽古』(明治三年、柳井弥三良)というような相場割や年貢・金銭勘定を含みながらもより高度な田畑などの測量計算法までを含む算法を教えていたようである。

 なお寺子屋一覧表の教科の項がほとんど「算術・読書」とあるのは『日本教育史資料』によるものである。これは明治期になってからの報告をもとにしたもので、すでに開始されていた学校の教科に沿って報告された可能性もある。しかし寺子屋での学習の中心は一にも二にも手習いであったといってよいだろう。手習いを通しての読書であって、算術や読書が主要な時間を占める所は実際は少なかったと思われる。その意味でかえって柳井氏に残される算法書が注意されるのである。寺子屋の多い喜志村ではそれぞれの寺子屋が一定の特徴をもつようになっていたとも考えられよう。

 なお喜志の寺子屋では正月のほか、毎月一五日(氏神祭日)と二五日(天神祭日)が休みで、とくに二五日は寺子たちが優秀な清書を奉納しに天満宮へ参詣したという。また七夕は寺子屋行事の最大のもので、笹に清書をくくりつけて寺子屋内を林の如くにし、七夕踊をおどったといわれている(『郷土史の研究』)