さて富田林であるが、ここにも計八人の師匠が確認される。
その内、早期の師匠として㉞㉟の竹島浩庵と杉山要助がいる。この二人は杉山家の「年中録」(寛政~天保)や「万留帳」(寛政三(一七九一)~文化一四(一八一七))などにみえるもので、たとえば、寛政四年(一七九二)八月二二日に「初太郎竹嶋氏江入門之祝儀 三匁」また寛政五年七月六日「銀三匁、竹嶋氏江初太郎より素読之祝儀」とみえる。竹島浩庵についてはすでに記したようにこの時期、富田林で活動した医師であるが、漢詩文における活動も幅広いものがあった。竹島浩庵は、他に妙慶寺などで講書をもしており(『集義斉詩稿』)、寺子屋を修了した程度の子どもたちに儒学の手ほどきをしていたことが確認できる。
また杉山要助は、杉山家当主の兄でありながら病弱のため分家した人で、やはり富田林出身で華岡青洲に入門して御室御所典医となっていた増田原流と親戚であった。ときに北杉山とも記されている。この杉山要助のもとへ杉山家の子女が手習いにいっている。たとえば寛政九年四月「銀三匁、お民、てら入之祝儀」、同一〇年三月三日「三匁、おたみ節句之祝儀 杉山要助」と記され、文化三年三月八日には「なお入字ニ遣候也、北杉山」とみえる。「入字」とは手習い入門のことであろう、また同じころ三蔵という子も要助のもとへ手習いにいった。さらに文化九年三月五日にはつぎのような記事が杉山家の「年中録」にみえる。「吉日ニ付美祢入字為レ致申(いたさせもうし)候、則為二土産(みやげとして)一赤飯五升、煮〆一重、白銀壱両祝儀遣ス、同壱両香料」と、これも北杉山(要助)方へであることが「万留帳」によってわかる。この美祢(みね)は文化二年一〇月一三日生まれ、この「入字」は数え八歳のときであった。
この寛政期前後の時期は、富田林には竹島浩庵が住み、その関係で京の学者江村北海の来訪もあり、また(仲村(佐渡屋))新右衛門が柘植龍洲のような学者と交流を深めるなど、学芸教育への関心が高まった時期である。富田林にはそれ以前、教育的施設がなかったとは考えられないが、この時期に新たな関心をもって教育的活動が高まったといえよう。文政一〇年(一八二七)没の「中島先生」も寛政期ころから活動をはじめていたと思われる。その他の師匠たちは幕末維新期に属するが、こういう新たな基盤の上に立って、寺子屋教育が在郷町の人々の間に浸透したようである。
この富田林の場合、寺子数の知られる所は幕末維新期に属する岸・久保両師匠の二校のみである。しかしそれだけで計二八〇名という寺子数であり、男女比もほぼ匹敵するに近い。富田林では寺子屋が一校平均一〇〇人を越え、大規模であり、しかも女子数が男子数に近いという都市特有の寺子屋のあり方を示している。明治二年(一八六九)人口一七一一人でその一五%を学齢児童とみても二五六人であり、寺子数二八〇人というのは就学度の目安としても一〇〇%を超えてしまう。おそらく周辺の毛人谷、山中田、新堂などからの通学児童もかなりの数に上ったのであろう。しかも、富田林では「維新頃、富田林村の児童は久保利吉郎氏、岸(本)平七氏、大松氏方へ、毛人谷村の児童は浦田次平氏方へ寺子として通ひたり」(『郷土史の研究』)といわれている。久保・岸本二人の寺子屋でこれだけの数字になっており、さらに大松氏の寺子屋があった。大松氏については寺子数ではないが、明治五年の富田林郷学校(興正寺別院)教師としての生徒数が二四名(男二一、女三)であった(『大阪府教育百年史』二史料編(1))。おそらく寺子屋もこれに近い数であったのであろう。そうしてこの幕末期にはまだ他に田守政隆・中村三右衛門という人たちが手習いを教えていた。この師匠田守氏は木綿問屋黒山屋の人で、能・謡にも通暁していた人であるが、また一定の寺子を教えていたこともたしかである。つぎのような寺子たちが入門に際して出した誓約書が残されている。読み下し文にして次に掲出してみよう(富田林田守家文書)。
定
一、手習中無言のこと
一、発声中無言のこと
一、手拍子高く打つべからざること
一、雑言ならびに悪口・口論慎むべきこと
一、品々取やり丁寧つかまつるべきこと
一、場所我れ勝ちにすること
一、用向これなく候につき、みだりに立たざること
一、筆・紙・墨その外何によらず、沢山致さざること
一、高咄・大笑・相撲慎むべきこと
右の条々かたくあい守り、もしあい背き候はば、貴殿思召次第、お取りはからい下され候ても苦しからず、そのため爪印、よってくだんの如し。
安政七年申二月廿七日
源之助
亀吉
忠吉
常太郎
田守政隆殿
四人の子どもが、師匠に提出した入門誓約状である。爪印まで捺して入門したものの、取っ組みあいをしたり、墨をこぼしたりなどのいたずら騒ぎは容易にはおさまらなかったであろう。寺子屋学習は手習いを中心とした比較的単調な学習であったから、子どもたちも途中で退屈気味になり、いたずらや勝手なおしゃべりをすることは避けられなかった。まして男児ばかりの入門となれば、なおさら戒めておく必要があったらしい。
ともあれ、富田林で学ぶ寺子数は周辺地域の子どもも含めて三〇〇をはるかに越えていたにちがいない。富田林という町では、この程度の寺子屋の活動が行われていたと考えるのはさして不思議ではない。ただし、さきの竹島浩庵や杉山要助、また田守氏や中村三右衛門の場合、比較的上層商家の子どもを対象としていたようであり、一般層の多くの子どもを教える大規模な寺子屋とはやや異質な性格をもって併存していたと思われる。この点に関わる在郷町商家の子女教育については次節であらためてみたい。
つぎに新堂の場合、七件の記載があるが、27豊澤先生は琴・三味線を中心とする稽古事の師匠であるとみられるし、29松谷菊はほぼ明治期になってからの裁縫教師であるから、いわゆる寺子屋師匠とはいいにくい。また28の中橋氏も、その筆子塚を建立した者たちが珍しく「学生中」と刻んでおり、以前には寺子屋師匠であったとしても、学制以後の教師としての働きに中心があるようである。すると寺子屋的性格をもったものは幕末維新期の三~四名ということになる。
この新堂村の場合、寺子数の知られるのは中島氏と樹林氏の二校であり、計七〇名、男女比六・五対三・五である。その寺子数を、さきほどと同じように明治二年人口(一三八二人)を基準とした推定学齢人口(二〇七人)と照らしてみれば三三・八%という目安が得られる。これは喜志村に比してかなり低い数値となるが、実はこれは久保正信や斯波氏のような師匠の寺子数が不明であることが大きい。『郷土史の研究』には「維新に近く久保正信先生を仰ぎて新堂をはじめ、中野より数多の入門者あり、又維新前には斯波先生を仰ぎて、本新堂の青年子女の教養せられしあり」とのべられていて、この二人の師匠に他村の子どもたちも含めて相当の寺子たちが学んでいたのである。とすると、新堂の寺子数はもっと多かったと考えてよいだろう。明治八年の新堂小学校が一七二人という高い生徒数であることもそのことを示しているようである。
大伴も時期的には注意される所である。すでに明和年間、この地域では西村允蔵をはじめとする学芸グループが形成されていたことはさきにのべた。そのころ南大伴の円照寺では儒書の講釈も行われていた。おそらく石水先生と称される人物もそういう雰囲気の中で出てきた人と思われる。その碑文によれば、石水は農家の出身であったが、学に志して苦学し京・大坂に学び、一たん郷里に帰って農耕に従事したが、学問への欲求を抑えがたく、ついに江戸に出て勉学した。しかし文化三年(一八〇六)、火災に会ったのを機に帰郷し、志半ばにして八月に没したという(五四歳)。この人は、儒学を修めて、それを教えていたらしく、その点、寺子屋というより私塾に近い性格をもったように思われる。その内容は今知ることができないが、その活動は天明・寛政期を中心にしていた。この人のあり方は農民出身で学に志し業半ばになくなった前述の西村允蔵のあり方によく似たものがある。この地域では他にも釈教順や仲尾氏、志胤法師など寛政・文化期に教育活動をはじめたとみられる人々がおり、地域の中では、比較的早くから教育への胎動がみられる点注意される。