諸村の寺子屋

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さて、この地の南部の村々にも多くの寺子屋がみられるが、時期的にはほとんどが幕末維新期に属し、一般的傾向としては一村一校程度となり規模がやや小さく、女子の占める割合が低くなる傾向がある。また市域北部に多く見出された筆子塚も南の方に行くにしたがい少なくなっている。このことは同じ農村地帯でありながら、在郷町を中心とした商業活動の影響がより強く浸透した地域と、農山村地帯として持続した地域とでは、寺子屋の普及分布においても一定のちがいを示しているように思われる。

 しかし現在不明になっている寺子屋も多く、一概にはいいえない。現に嬉村の田中家には表118のような多くの往来手本が残されていた。

表118 嬉村田中家使用往来物
使用者 教材名
田中甚吉(仲蔵の父) 文章
田中仲蔵(天保元年(1830)生) 実語教・童子教(天保9年(1838)3月吉日)
諸職往来・曽我状
大坂帖返事
御手本(譲り田地之事小作証文など)
御手本
寺子屋教訓書
証文手本(家賃証文等)
地方目録
熊谷送状
御手本(異国名尽・預かり証文など)
席書手本(天保14年(1843))
田中具満(くま)女 七夕詩歌
嬉村 田中市治良 農業往来
うれし村 田中ことめ 風月往来諸職往来二部合冊(文久2年(1862)11月)
京名所・文章(文久2年正月)
田中なつ 女文章
田中弥太郎 奉公人証文・府県名(明治6年(1873))
堺県小学習字本・一谷嫩軍記(明治17年(1884))
不明 百人一首・大全童子往来・男女諸礼
家質証文類(安政6年(1859))
商売往来・石川・錦部郡村々
写真229 田中家蔵往来物

 ほぼ天保期から幕末に至る期間使用されたものである。とくに田中仲蔵という子は天保元年(一八三〇)生まれであるが(宗門帳)、天保九年、九歳のときにすでに、実語教童子教を読んでおり、しかもその五年後、一四歳のときには席書(せきがき)手本を与えられている。席書とは、春や秋に寺子屋で一般の人をも招いて行われた書の展覧会である。この仲蔵は少なくとも六年間は寺子屋で学んでいたことになる。女子も三名みえ、いずれも女子向けの教材を習っているのがわかる。なかに表からは省いたが「洗濯所(せんたくどころ)より蚤虱蚊(のみしらみか)共へ申渡(もうしわたし)、并(なら)びに虫三ケ仲間ゟ洗濯所へ願い上之事 御笑艸(おわらいぐさ)」と題した写本がある。これは実は寛政期大坂で落語の前身である浮世咄(うきよばなし)で人気を博した松田弥助が演じたものである(前田勇『上方落語の歴史』)。これは奉行所からの申し渡しや訴え書きの形式をそのまま用いて、蚤虱蚊を駆逐しようと訴える側と、それに対する蚤虱蚊側の助命嘆願を大真面目に記したもので、末尾には「幼少ニ付代 大溝淵かゆかりや(屋)ぶたん判」などと記してある。これなどは願書の形式を学ぶとともに寺子屋学習の単調さに笑いをもたらすために師匠が読んで聞かせたり、写させたりしたものかもしれない。この師匠は相当長期にわたって活動したことは明らかだが、その師匠名は残念ながら判明しない。

 また錦郡村には大日堂(松浦氏)をはじめ四つの寺子屋があったし、錦郡新田にも奥井氏の寺子屋があり、知られる寺子数は三二人、六五人というかなりの寺子数がみられる。おそらくこれも一村内の寺子ではなく、周辺の村々の子どもたちを含むであろう。

 明治六年(一八七三)の「錦郡村小学生徒員数記」という史料によれば、錦郡村五八人、新家村二人、甲田村九人、市村(現河内長野市)一五人、廿山村七人、計九一人(男六八、女二三)という数字がみられる(『大阪府教育百年史』史料編(1))。これは錦郡校創立時の数字であるが、この数字は、寺子数の合計数と近く、おそらく寺子屋当時においても、このような形で周辺諸村からの通学が多かったのであろう。現に北甲田の東高野街道ぞいには明治八年五月のものであるが「手習中」によって天満宮を祭った石灯篭が建てられており、甲田にも一定の手習仲間が形成されていたことが確かめられる。

 なお横山の師匠東尾利平は、弘化二年(一八四五)九月錦部郡市村に設立された有慶舎という心学講舎の都講(とこう)(講舎の維持運営を行う人)としてみえる東尾利兵衛と同一人であろう(石川謙『石門心学史の研究』)。心学というのは、享保期、京の石田梅岩がはじめた庶民思想で、人の本質は「心」にあるとし、もともと「天」から賦与された真実なあり方としてだれにでも備わっているが、成長の過程で見失い迷いに陥って身の没落を招くものが多いとして、それを究め知ることの必要性を説いた。しかしそれを観念的にもとめるのではなく、「形に由(よ)る心」といい、「職分」の遂行を通して「心」の実現があるとし、具体的には「勤勉」「倹約」「正直」などの通俗道徳の実践に自己実現の可能性を説いた。その石田梅岩も享保期、富田林の近くの下館藩の白木役所へ来たことがあり、かつては一定の扶植がなされたようであるが、その後、この地域ではほとんど途絶えていたものである。しかし天保期ころからの社会的動揺や庶民自身の生活的危機感の高まりの中で、社会教化の一手段としてあらためて注目する人々が出てきた。有慶舎の設立直前の弘化二年八月には兵庫の心学講師植田藁翁が富田林の佐渡屋徳兵衛家や平尾屋庄兵衛家、また西板持の片岡家などを訪れて道話を行っている(『仲村家年中録』)。

 おそらく横山の東尾氏もこの動きの中で、有慶舎設立に関わったものであろう。そうして東尾氏は寺子屋師匠としても心学を取り入れたにちがいない。また富田林市域に接する古市郡通法寺村にも増本石斎(一七九二~一八八三)という寺子屋師匠で心学を取り入れた人がいたが、この人に学んだ門人総代三人の中に喜志村木下喜一、新堂村西藤藤兵衛の二人がみえる(「増本石斎翁履歴」(『羽曳野市史』史料編二))。このように天保期ころからはこの地域でも社会的生活的危機感を精神的道徳的教化を通して支え克服しようとするような教導も一部には行われたのである。

 以上、市域にはかつてきわめて多くの寺子屋があった。個々の寺子屋の内容については史料がなくほとんど不明であるが、それぞれに一定の特質をもって形成されたらしいことが想見された。多くの寺子屋は幕末維新期に属するが、それでも富田林・北大伴・喜志という地域においては寛政期ころに新たな教育や学芸への関心が高まり、それにともなって、寺子屋として自立した教育活動が形成され、筆子塚建立に至るような持続的な関係が展開していった。その動きは化政・天保期へと受けつがれ、庶民の生活的自覚の高まりを中心に、社会教化の意図を加えながら幕末維新期の増加をみるに至ったものと思われる。そうしてその結果、地域・階層間に差違はありながらも、富田林や喜志を筆頭に高い寺子屋就学度が達成されていたとみられるのである。