商家男子の「仕込方」

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これまでは主として寺子屋の側を中心にその普及をみてきたが、つぎにそれでは、個々の家においては実際に子どもたちにどのような教育や稽古事を身につけさせようとしていたのかという、家としての子女教育のあり方をみておく必要がある。家として、子どもたちが成長過程でどういうことを身につけるべきだと考えていたか、ということである。

 といっても、そのような内容をまとまって示してくれるような史料はない。それでここでは地域的にまた階層的に限定されることになるが、在郷町富田林の酒造家佐渡屋徳兵衛家の子女教育を中心にみていきたいと思う。そこに示されているあり方は、個々人の興味関心を示すというよりも、佐渡屋という在郷町一商家の家としての教養形成のあり方を示すとみられる。そしてそれはまた幕末期在郷町における上層商家における子女教育の型、およびその背景としての在郷町文化の特質についても認識を深めるものと思われる。寺子屋教育と重なりながらも一般のそれとはかなり異なった独自な様相がおのずとみられるであろう。

 当時の佐渡屋徳兵衛家の家族構成はつぎのようであった。

図35 幕末期佐渡屋の家族

 この佐渡屋ではこれらの子どもたちの誕生からはじまる子育ての行事を通しても、かなり行き届いた教育を行なっていたことが知られるが、その子どもたちが、一〇歳前後の一定年齢に達してからの教育・稽古事の修得についても熱心であった様子がうかがわれる。まず男子三人について、どのような教育・稽古事の修得がおこなわれているかを、同家の「年中録」の記事を中心に各人別にまとめて表にすると表119のようである。

表119 佐渡屋徳兵衛家の子女教育(1)
年号 年齢 内容 費用
長男新之輔
(のち徳兵衛信道)
天保11年(1840) 2月 12 仕舞入門(師:太田村馬野龍次郎) ・入門料 金2朱
・二夜泊り稽古料 金3朱
・七夕会の節 金3朱
・正月会
・月並会 金1朱
・シテ会
・盆祝儀 金1朱
・歳末祝儀 金1朱
8月11日 謡入門(師:中村三右衛門) ・入門料 金2朱
・五節句 金100疋宛
12月16日 仕舞免状受ける ・免状料 銀1疋
・肴料 金百疋
天保14年(1843) 12月13日 15 半元服
弘化2年(1845) 11月24日 17 元服
4年(1847) 8月15日 19 成人名命名料(名信道字子篤) 金100疋
嘉永3年(1850) 9月15日 22 徳兵衛襲名
5年(1852) 6月20日 24 縁談まとまる
8月3日 結納弘
安政2年(1855) 9月24日 27 婚姻披露
次男新蔵
(のち徳之輔)
弘化元年(1844) 3月11日 11 謡入門(師・中村三右衛門) ・入門料 銀1両
・月々謝儀 銀三匁
11日朔日 手習入門(師:中村三右衛門) ・入門料 銀1両
2年(1845) 10月18日 12 謡入門(師:馬野龍次郎) ・入門料 金50朱
嘉永元年(1848) 12月13日 15 半元服 徳之輔に改名
3年(1850) 6月9日 17 華道入門(師:初田雅之丞) ・入門料 金50疋
3月8日 中村三右衛門に五節句祝儀 金50疋
9月15日 元服
6年(1853) 3月31日 20 森田節斉に成人名を付けてもらう(名信友字明卿)
安政元年(1854) 4月8日 21 備中倉敷の水沢家(屋号井筒屋)へ養子縁組まとまる
2年(1855) 3月 22 茶花道未熟により嶋泉村の吉村丹下殿におねがいし特別に訓練する
4月9日 養子縁組が整い大坂の船曳家(伊丹屋)へ引越
3年(1856) 9月12日 23 死亡
三男真太郎
(のち遠三郎)
天保14年(1843) 3月16日 8 仕舞入門(師:馬之龍次郎) ・入門料 金2朱
弘化元年(1844) 3月11日 9 手習入門(師:中村三右衛門) ・月々謝儀 銀2匁
嘉永5年(1852) 3月8日 17 中村三右衛門に五月節句祝儀 金50疋
3月18日 華道入門(師:初田雅之丞) ・入門料 金2朱
6年(1853) 3月31日 18 森田節斉に成人名を付けてもらう(名信好字古卿)
4月3日 中村方謡内会に出席 ・出席料 銀4匁3分
安政2年(1855) 3月 20 茶花道未熟により嶋泉村の吉田丹下殿へおねがいして特別に訓練する
8月26日 花道稽古(泉龍寺) ・謝礼 銀3匁
10月19日 茶道稽古(吉村氏来宅)
~23日 そろばん稽古(師匠:刀屋次郎吉) ・謝礼 銀1朱
11月2日 20 遠三郎と改名し、備中へ入縁

 長男新之輔について知られる最初は天保一一年(一八四〇)一二歳のとき、志紀郡太田村(現八尾市)の馬野龍次郎のもとに仕舞・謡の入門を行ったことである。馬野氏は宝生流の能役者で南郡薪能をはじめ各地の能興行に出演するほどの人であった。入門料として金弐朱(一両の八分の一)、師匠が泊りがけで稽古をつけにきたのに対して、その謝礼が三朱、さらに七夕会や正月会、月並会やシテ会など多くの会への出席をも行ったらしい。シテ会では四拍子の謝礼は三匁宛、謡は二匁であった。また同年八月には中村三右衛門のもとにも謡の入門を行っている。中村三右衛門は富田林に居住した手習師匠でもあり、太田村というかなり距離のある馬野氏に常時つくことは困難であったので、まず地元の中村氏にもつくことにしたのであろう。おそらく新之輔はすでに手習いについては中村三右衛門に従っていたものと思われる。そして同年一二月には、一定の仕舞の免状を馬野氏からうけた。「山姥」の綱の段、「江口」の鴉の段、「西行桜」の笹の段など、「重(おも)仕舞」とされる六つの段について免状をうけている。免状料はやはり当時もかなり高額で銀一枚(四三匁)にもなっている。それに肴料として金百疋(ぴき)(金一分、一両の四分の一)を付けており、計一両ほどにのぼっている。

写真230 天保11年 仕舞免状(仲村家文書)

 この馬野氏に入門したさいの誓約書が残されるが、「起証文之事」と題され、第一条、稽古を大切にし、相伝の内容はたとえ親子であっても他言してはならないということからはじまり、九カ条からなっている。多くは相伝をうけずに演じてはならないこと、謡本の他見禁止、流派を変えることの禁などであるが、最後の第九条はいかがわしい場所や遊所・芝居の者からの依頼は断るべきこととあり、能楽の格式高さを示している。こうして長男新之輔については能関係の入門しか知られないが、このときには当然すでに一定の読み書き能力の修得は前提になっていたはずである。謡本そのものを読めなくてはできなかったにちがいないからである。なおこの新之輔は一五歳で半元服、一七歳で元服したが、一九歳のときに母がなくなり、そして二一歳のときには父も没した。すなわち、二二歳で佐渡屋徳兵衛を襲名し、酒造業と家政を継ぎ、さらに弟妹たちの世話を行わねばならない立場に立たされるのである。

 さてつぎに次男新蔵の場合はどうか、新蔵も、やはり一一歳のとき、まず中村三右衛門に謡入門している。そしてややおくれて同じ師匠に手習いを学びはじめている。一年後にはさらに馬野氏へ謡入門を行った。中村三右衛門よりは馬野氏が能については本格的な師匠であったのである。その後、一五歳で半元服を行い、徳之輔と改名し、一七歳になって京の初田雅之丞という人のもとへ筆道の入門を行っている。但しこれは京の親類宅に滞在中の短期修学であった。そして、養子縁組の話が出てきた段階で、兄新之輔(このときはすでに徳兵衛信道)が「稽古事一向行届不申、殊ニ茶道抔も甚未熟と申程ニも出来不申ニ付」と心配し、三男の真太郎ともども、丹北郡嶋泉村の館林藩大庄屋吉村丹下氏に「仕込方」を依頼して佐渡屋へ来てもらっている。そうして、大坂の船曳家(伊丹屋)へ、二二歳で養子婿として入ることになる。

 三男真太郎の場合はどのようであろうか。真太郎の場合もやはり基本的には同様である。八歳でまず仕舞に入門し、九歳のとき手習いに入っている。その後の経過は兄新蔵と同様であるが、倉敷へ養子に行く直前になって茶道や花道、そしてそろばん稽古などを急仕込みさせているのはやはり長兄が「未熟」なのを心配したからであった。そうしてその年、二〇歳で遠三郎と改名して倉敷へ移っていったのである。

 さて、以上のようにみてくればおのずと知られるように男子の場合、共通して大体一〇歳前後において手習いと謡・仕舞にほぼ同時に入門し稽古しはじめるのである。手習いと同時期か、あるいはそれよりも早く謡や仕舞にふれるという経験をもつのである。能や謡は、元禄期頃から、在郷町富田林において俳詣と並ぶ代表的な芸として展開したが、幕末期に至り、その修得は教養形成の必須の一部として組み入れられていたとみることができよう。男子は一二、三歳になれば一定の免状をうけ、半元服もすんで一七、八歳になれば松囃会、追善会その他、謡の会にしばしば出席して他の人々とわたりあうようになる。謡や仕舞の会は上層商家仲間の調和と結束を強める意味をもっており、それらの修得は、一人前の教養文化を身につけた者として、仲間に伍してゆくための必須の芸として定着していったとみられる。「男子と生れて書(もの)をかゝざると謡を少しも心掛けざるとは存じよらざる所にて恥ずかしき事あり」(田宮仲宣『随一小謡絵抄』(文化二年))と当時の大坂ではいわれた。よみかきと並んで謡の素養をもたなければ人との付合いに「恥かしき事」があると意識されていたのである。そしてしかも、それはたんなる旦那の慰み芸程度のものではなく、幼少年期から身体に仕込まれることではじめて身につくものでもあった。「舞二年、太鼓三年、ふえ五年、つゝみ七年、うたひ十年」(同上)といわれるように長い修得期間を要したのである。

写真231 田宮仲宣『随一小謡絵抄』

 ところで、こういう謡や仕舞が、手習いとまったく別のものとして修得されていったのではない。謡や仕舞いは、発声を正しくし、所作にしたがって体を動かすという点で、一定の身体的作法的効果をもっていたが、同時に豊かな語彙や古典的教養をしだいに覚えてゆくという効果をあわせもっていた。それは手習いが習字を中心に読書を兼ね、また礼儀作法を身につけるのと共通の要素をもっていた。いずれも単に知識修得だけではない、身体的修練をともなっていたといえよう。したがって当時は、手習いと謡の両方を教える師匠が、とくに商人の住む町では多かったのである。この佐渡屋の子どもたちも少年期は中村三右衛門という師匠に両方習いに行っている。この中村三右衛門については他に知ることができないが、大坂の儒学者篠崎小竹の「交友郷里姓名」という交友人名録の中にみえ、何らかのつながりをもっていたらしい。長男新之輔の成人名(信道)を篠崎小竹につけてもらっているのもその関係からであろう。

 この師匠中村三右衛門と佐渡屋との関係でもう一つ注意されるのは、嘉永元年八月に三右衛門が寺子屋を建て替えたとき、費用四七〇匁ほどかかったが、支払い困難であった。そのとき佐渡屋が依頼されて、その寺子屋を助力の意味で三〇〇匁で買い取り、それをあらためて三右衛門に貸し与えていることである。(『仲村家年中録』)。家賃は当初は年二五匁の約定であったのを、事情を考慮して、六〇匁六年賦という格安で応じている。このように寺子屋師匠と佐渡屋はその生活面をも支えるような非常に緊密な関係で結ばれていたことがうかがえる。