さて、男子に対して女子の場合はどのようであっただろうか。やはり三人の女子の手習いと稽古事の過程を表120で示そう。長女てるの場合、天保一一年(一八四〇)九月六日、九歳のときに琴稽古に入門しているのが記録の最初であるが、手習いへはそれ以前に入門していたにちがいない。その琴稽古の師匠は大坂雑喉場櫂屋町の西村検校で、実際はその代稽古梅野という「瞽女(ごぜ)」についた。入門祝儀金百疋、一日分稽古料三匁、心付として金壱朱渡している。その後、翌一二年、一〇歳で琴の表組(邦楽で最初の段階に属する曲群)の一部について免状をうけた。免状料は銀二枚(八六匁)という高い費用を要している。ついで翌年、一一歳には越後獅子の免状を得た。「沢山流長歌秘曲」と免状には記されている。てるはその後、一二歳で、「縫物屋」へ入門。読物(よみもの)屋や算盤(そろばん)屋と同じように裁縫を教える所が「縫物屋」と当時一般によばれたのである。やはりこういう上層商家であっても、裁縫は女子の必須技術と意識されていたらしい。そうしてこのてるは、弘化二年(一八四五)、一四歳のときにのぶと改名した上、京の親類宅にしばらく滞在し、そこであらためて琴や筆道に入門している(「のぶ吉谷滞留諸事控」)。それは縁談がきまり、そのための準備であった。てるは翌年、一五歳で南都の酒造家菊屋へ嫁ぐことになる。まだ少女を脱けきらない若さであった。
年号 | 年齢 | 内容 | 費用 | |||
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長女てる (のち改名のぶ) |
天保11年(1840) | 9月6日 | 9 | 琴稽古入門(師匠大坂ざこばかい屋町西村検校 代稽古梅野) | 入門祝儀金100疋 | |
・一日分稽古料 | 銀3匁 | |||||
・心付 | 金1朱 | |||||
12年(1841) | 5月 | 10 | 琴組入 | ・免許料 | 銀2枚 | |
13年(1842) | 9月9日 | 11 | 越後獅子并千代春の免許取得 | ・免許状料 | 金200疋 | |
14年(1843) | 10月朔日 | 12 | 縫物屋へ入門 | ・入門料 | 銀1両 | |
弘化2年(1845) | 5月 | 14 | 京都吉谷家で寄宿生活(稽古事の為) | |||
5月29日 | 琴入門(吉谷家) | ・入門料 | 金100疋 | |||
筆道入門(初田氏) | ||||||
7月 | 組入免許状 | ・免許状料 | 銀2分3朱 | |||
11月10日 | てる改めのぶになる、 | |||||
琴根引松免許状 | 金2両2歩 | |||||
11月24日 | 結納 | |||||
嘉永5年(1852) | 5月10日 | 17 | 山中田村泉龍寺に生花 | |||
稽古 | ||||||
・入門料 | 銀1両 | |||||
・稽古料(一日分) | 銀3匁 | |||||
安政4年(1857) | 2月27日 | 23 | 死亡 | |||
次女おとく | 弘化4年(1847) | 8月13日 | 7 | 手習入門(師:中村三右衛門) | ||
・入門料 | 銀1両 | |||||
・毎月謝儀 | 銀3匁 | |||||
嘉永2年(1849) | 8月7日 | 9 | 大坂華房家で寄宿生活 | |||
5年(1852) | 5月10日 | 12 | 山中田村泉龍寺(池坊門人) | |||
生花けいこ | ・入門料 | 銀1両 | ||||
・稽古料 | 銀3匁 | |||||
6年(1853) | 2月27日 | 13 | 琴表組入免許 | ・免許料 | 銀2枚 | |
安政元年(1854) | 6月3日 | 14 | 大坂華房家よりひきとる | |||
・肴料 | 銀2両 | |||||
2年(1855) | 11月21日 | 15 | 琴稽古入門(師:堺嶋住勾当) | ・入門料 | 金50疋 | |
3年(1856) | 3月11日 | 16 | 茶道稽古(吉村氏入来) | ・謝礼 | 金200疋 | |
三女お慶 | 嘉永5年(1852) | 5月16日 | 8 | 山中田村泉龍寺(池坊門人)へ | ||
生花の稽古 | ・入門料 | 銀1両 | ||||
・一日分の稽古料 | 銀3匁 | |||||
安政元年(1854) | 6月7日 | 10 | 南都大東五兵衛方へ寄宿 | |||
・入門料 | ||||||
7月 | 大坂華房家へ寄宿 | ・お土産 | 金100疋 酒2升 盃 干瓢100匁包 まんじゅう370個 4匁3分 | |||
2年(1855) | 1月22日 | 11 | 琴入門 | ・入門料 | ||
裁縫入門 | ||||||
4年(1857) | 13 | 三味線入門 | ||||
5年(1858) | 11月8日 | 14 | 華房家より家に戻る |
さて次女おとくと三女お慶はよく似た過程を歩んだ。とくは七歳で富田林の中村三右衛門に手習いの入門をした。その時の記事につぎのようにある。
弘化四未年八月十三日
一、銀壱両
右ハ中村三右衛門殿方へとく入門祝儀、外ニ壱ケ月ニ三匁ツゝ祝儀毎月遣し候事、手習子供へ之土産弐文之餅七ツヅゝ調(ととのえ)、数五十包遣ス、三右衛門殿方ヘハ餅五十遣ス
入門料は銀一両(四・三匁)、月謝は銀三匁であった。また入門に際して仲間の寺子たちへの土産がみえる。銭二文の餅七つずつ計五〇とある。これによると、三右衛門方の寺子屋は寺子七人ほどという、まことに限られた子どもたちの通う所だったということになる。あるいはこの中村三右衛門は佐渡屋一統か、またはそのような上層商家の子女を専ら対象としていた師匠かもしれない。それは、富田林のこの時期の寺子屋が、寺子百人ほども擁する所があったのとは、対照的であり、一般の家の子どもが通う寺子屋と上層商家の子どもが通う寺子屋とが、かなり明確に区分されていた可能性がある。後者の場合には、さきの師匠杉山要助もそのようであったが、特定商家によって寺子屋が丸抱えされていたともいえそうである。そうして、このようなあり方は、また次の問題とも関連する。
すなわち次女とくはその後、嘉永二年八月、九歳のとき、大坂の寺子屋へ寄宿生活に行くこととなるのである。それは足かけ六年に及ぶものとなる。同家「年中録」嘉永二年八月七日の所におとくの入門のことが記されその寺子屋について「大坂新うつぼ町花房薗生 右師匠ハ尼也、尤仕込方大ニよろしく由ニ有之候事」とみえる。このおとくについてはその入門寄宿の状況が具体的に知られないが、その妹、三女の慶も、おとくに続いて同じ寺子屋に寄宿するのである。