女子の寺子屋寄宿の様相

887 ~ 892

江戸期は女子教育に不熱心だったと一般に思われがちである。まして江戸期の富田林の一〇歳ほどの女子が、家を離れて都市の寺子屋へ何年間も寄宿生活をしていたというのは意外に思われるかもしれない。しかしこの佐渡屋の女子二人が寄宿生活をしたことは事実である。とくに三女お慶は生れて二年後に母がなくなり、父も同じく四年後に没したので、両親の記憶はほとんどもたなかったといってよい。したがって長兄徳兵衛がお慶の養育にあたったのである。「年中録」では「小いと」と記されていることもある。つまり「こいさん」であり、おそらく末娘として可愛いがられてもいたのであろう。しかし若き当主徳兵衛が家業も家政も、弟妹の養育もすべて担うのは大変であった。長女はすでに嫁し、世話をする女手がなく、おとくやお慶の養育が行き届かないのを心配した。その結果、人を介して大坂の寺子屋へ寄宿させることになったのである。佐渡屋では、上層商家だからというだけでなく、寺子屋寄宿については、こういう事情もあったのである。

 おとくについては記録を欠くが、お慶については別に「お慶華房氏寄宿中諸入用録」と題する記録が残されている。それによって、お慶の寺子屋寄宿生活をやや具体的にうかがっておこう。

 その寺子屋はおとくの所でふれたように、大坂西船場の靱にあった華房薗生という女師匠の所であった。この寺子屋については他に史料がないが、『日本教育史資料』寺子屋表に靱上通一丁目の「花月堂」(師匠名花房佐一郎)という寺子屋が載せられるが、場所と師匠の姓が同じである点、何らかの親縁関係があったと思われる。靱は塩干魚商人が集住するにぎやかな所であった。

 お慶がそこへ入門寄宿したのは安政元年(一八五四)閏七月朔日であった。数え一〇歳の時である。史料にはこのときの入門の式が次のように記される。

閏七月朔日より入門華房土産

一、金百疋  入門祝儀

一、丹頂弐升 通樽に入

一、松木造内金粉蒔絵盃 箱入

一、干瓢百匁包

一、心斎橋亀屋饅頭 数三百七十

 代壱〆百十四文

[三文かへ(挿入)]但寺子屋寄宿子供共百廿人前積、比数凡三百六十之所、十ヲ丈余分ニ差遣候事

右之通土産差送候事

 入門の日は寺子屋の場合、原則としていつでもよかったが、閏七月朔日というのはおそらく一年の後半の始まりのつもりであったろう。入門料は金一〇〇疋、すなわち金一分で、一両の四分の一である。「丹頂」はこの佐渡屋醸造の銘酒である。立派な盃はもちろん師弟という人間関係の契りを結ぶ挨拶であり、干瓢は季節の土産である。

 さて、師弟関係の契りが結ばれると、つぎにはいっしょに机を並べる者たちへの挨拶がある。それが饅頭である。おそらく当時、知られた店であったのだろう、心斎橋の亀屋という店で、なんと三七〇個の饅頭を買入れている。一個三文であった。それを一人三つずつ、一二〇人の寺子たちへの土産としたのである。それにしても一二〇人の「寺子屋寄宿子供」とは、さすが大坂の寺子屋である。大規模である。おそらくお慶たちもはじめは圧倒されたにちがいない。多くは通学していたにちがいないが、お慶の他に周辺地域から寄宿に来ている子供たちがいたことが知られる。

 もちろんお慶はこれらの土産品の他に、学ぶための机、文庫、硯箱は当然のこと、寄宿生活を送るための箪笥・ふとん・飯台・鏡台・琴・日傘・雨傘・針箱、そして夥しい衣類、単物(ひとえもの)・ゆかた・かたびら・帯など四〇種余を持参した。これらはその後、季節の変化に合わせて、また成長に伴って新調されるのであり、記録の奥に書き出された品々は厖大な数になる。

 こうして寺子屋生活ははじまったのである。そこで何をどう習ったかはこの記録からははっきりわからない。どんなことにどれだけ費用がかかっているかということから少々うかがっておこう。みると折手本(壱匁)がまず記されている。これは師匠にお手本を書いてもらうためである。そして半紙や清書草紙が目に入る。もちろん習字のためである。「こま書」や「かふら筆」という筆を度々購入している。書くものによって筆の種類を変えたのである。そして生活に関わって目につくものに「せんたくちん」(大体一度に六〇文前後)、また女子ゆえであろうか、「さし込」(髪を結う飾り道具)「元結」「かみちん」「かみあぶら」「かもし」などがみえる。そして慣れない生活に病気でもしたのか、「療治」とか「丸薬」「少々腹痛」などが入門後一~二カ月の間にみられる。

 これらの支払いや寄宿料は師匠華房氏において立替えておき、およそ、二カ月毎に長兄徳兵衛が送金するというしかたをとっていた。最初の送金は閏七月朔日の入門から九月六日まで六五日分であり、飯料つまり寄宿料は銀八四匁五分、すなわち一日銀一匁三分という計算であった。この年の貨幣相場は大体金一両が銀六〇匁余である。寄宿料はかなり高かったのである。その他に先述の諸入用が計三八匁三分五厘、寄宿料と合わせて銀一二三匁ほどとなる。約二両である。そしてこの二カ月ごとの支払いのたびに金百疋の祝儀を送っている。一カ月で一両以上の寄宿生活費がかかったのである。

 お慶はしだいに大坂の寺子屋生活に慣れてきたのか、入門四カ月後の一一月には、安政大地震があり、大坂市中は大被害をうけたので人を遣わして連れ帰らせようとしたが、お慶は「帰り申さず」とある。やっと暮の一二月二五日、正月を実家で過ごさせるため迎えの者が遣わされ、翌二六日一たん帰宅する。半年間一人で寄宿生活を送り終えたのである。これは、お慶にとって自信を、兄姉たちに安堵の思いをもたらしたであろう。

 翌安政二年正月二二日に、お慶は華房方での寄宿生活に戻る。そうして二月朔日、琴に入門する。最初の持参品にもあったように琴の修得は予定のことであった。当時の一定階層の女子は琴の修得を必須としていたのである。半年経て、寄宿生活を続けていく見通しが出来たところで入門したものであろう。生嶋検校という人に「ひざつき(膝付)祝儀」四匁三分を差し出している。膝付料とは遊芸師匠への入門料である。そして寄宿生活での最初の雛の節供に際し、「雛茶呑・茶わん」「なゝ人形」「ざつ人形」「人形着類きれ」などを買って、女の子らしい楽しみをもとうとする。また寺子仲間と一緒に「遊参」や、「山行」「見物」など都市の遊びも加わってきた。寄宿生活は順調に過ぎていった。手習いと琴の他に裁縫の修得も課業に加わる。「縫針」や「絹糸」の購入がみえてくる。裁縫は手習師匠華房氏が自ら教えた。そうして成長に従って、「紅」「髪油」「ひん付」「おしろい」「かんさし」「まゆはけ」など化粧具も目立つようになる。琴の方も上達し、「さらへ講」と称する会に定期的に出席するに至っている。そしてさらに寄宿四年目には三味線にも手を染めるようになるのである。

 このお慶は結局、安政五年一一月八日まで、足かけ五年間一四歳まで寄宿生活を送ることになる。このお慶はどんな子であったろうか。師匠華房氏の安政二年の手紙の一節に次のようにみえる「(前略)然ル所おとく様いもうとおけい様と申ハ只今私方ニ寄宿ニ預リ居申候、是は年十一歳ニ御座候、物しづかにておとなしく、おとく様とハ大キニ違ひ、きりやうも少々上ニ御座候」(中島三佳氏蔵書簡)と、四歳上の姉のおとくにはやや気の毒な書き方だが、お慶は素直な師匠好みの子であったらしい。

 ともあれ、この佐渡屋では兄弟姉妹区別することなく、末娘であろうと、一人前の読み書き能力と稽古事を身につけさせようとした。しかも一人で寄宿させて師匠に預けるという形をとったのである。お慶の方もそれほどホームシックにかかったりした様子もなく、都市の寺子屋生活にスムーズに溶けこみ、手習いや稽古事を修得していった。一方、師匠の方も実家と連絡をはかりながら、お慶の勉学と生活の一切を委ねられ、その成長を責任をもって見守ったのである。寺子屋を下山するころには、お慶は少女から娘へと変貌をとげていたはずである。

 男女における内容的違いはあるにせよ、当時決して女子教育に不熱心であったわけではない。佐渡屋にとってこのような一人一人にかけた教育負担は相当大きかったであろう。しかし当時すでに、一定の家々ではこういうあり方が当然と意識されるようになっていたのである。

 明治期になって、杉山家の娘杉山タカ(のちの歌人石上露子)は大阪の愛日小学校そして梅花女学校へと寄宿の勉学生活をおくるが、そういうあり方はすでにこの幕末期の富田林上層町家で培われていた。