このように、佐渡屋を中心にみてきた在郷町商家における子女の教育は、寺子屋を中心にしながらも、そこでの修得は読み書きに限られたものでなく、男子では能謡、女子では琴を中心にした「芸」の修得が強くめざされ、茶道・花道がそれにともない、そして筆道・そろばんや裁縫技術が生活や仕事に必要な技術として意識されていた。
それは寺子屋を中心に考えた場合の、読み書きそろばんという実用的教育に限られたものでなく、遊芸を中心とした幅広い教養や技芸と一体のものとなってはじめて一人前と認められるようなあり方である。それはたしかに遊芸に傾きすぎている面があるかもしれない。同家では森田節斎や吉田松陰を迎えながら、かれらとの学芸面の交渉は残される史料からみる限り、それほど強くはない。佐渡屋では前述したように寛政・文化期の当主新右衛門や分家徳平が一方で俳諧を嗜みながら、他方で柘植龍洲や宇津木昆台などの学者と親密でその学問研究を支援するような動きももった。しかし、元禄期以来の在郷町文化の主流は能や俳諧、さらに茶・花を中心とする遊芸にあったといえよう。それらは遊びと修練の両義をおびつつ、生活を豊かに活性化し、また社会的な結びつきを深めるという意義をもって積極的に身につけられていった。しかしそれは幕末期には、商家の子女として一人前になるための資格証明的な意味合さえ帯びる「芸」と化しつつあったといえよう。