近世寺社の復興

893 ~ 896

天正一〇年(一五八二)、織田信長が本能寺において没した後、権力を掌握した豊臣秀吉は、着実に天下統一の大業を果たしつつあった。そして、天正一三年七月、ついに関白の宣下を受け、従一位に叙せられるに至った。こうした近世封建権力は、自己が安定化するにつれて、旧来の寺社領荘園を大幅削減したものの、新たに近世的寺社領として安堵するとともに、信長段階までに破壊された寺社の再興にも力を入れていった。それは統制と保護の政策と言えよう。たとえば信長・秀吉にとって最大の敵であったとも言ってよい一向一揆の総本山である本願寺には、天正一三年五月、大坂天満の地を与えて、本願寺を和泉国の貝塚から大坂の天満に移し再興させたり、文禄三年(一五九四)の秋には、四天王寺の再興を計画した。

 さらに、徳川家康の勧めによるところが大きかったとは言え、豊臣秀頼の時にも、諸国の多数の寺社が造営・修復された。富田林市域では、喜志村の美具久留御魂神社(喜志宮)は戦国時代に退転したが、秀吉以後、秀頼・徳川家光などによって、修復・造営されたことが分かっている。

 たとえば、万治三年(一六六〇)の「河内国下水分大明神記録」(美具久留御魂神社文書)によれば、

(前略)昔日、天正年中己卯乃比、殊に零落に及へり、其節、当地の社僧下之坊・南嶋坊・加福院・金福院・自幸院・福本坊・西徳院・福生院・奥蔵院・性徳院・善福院・新太夫といふ人ありき、中にも下之坊本願人として各坊中、当社を再興し(中略)、神威益盛なり、然りといへとも、其後、天下乱世に及ひし、殊に本朝乃領主 太閤の御時とかや、当社におゐて往古よりの社領皆々減少せしめ給へり、衆僧坊中に堪かたく、宮人家内にとヽまるるを、之頃こと/\く馳散して、終に其行方をしらす(中略)、然所に日域乃将軍太閤乃御代官として伊藤加賀守当国の守護たりき、(中略)しカあるによりて当社零落乃躰、偏に是をなけき(中略)、仍而 拝殿を再興し(中略)、亦拝殿ハ同き御守護の時代文禄第四の比、おのつカら崩落せしめ、また重而是を再興し給ひ(中略)、五社再興乃年代を校ふに天正七己卯年より当年万治庚子に至迄八十二年を経たりき(下略)

と伝えている。さらに後の史料ではあるが、文化三年(一八〇六)三月五日、神主の青谷播磨守橘朝臣忠賀の「美具久留御魂神社略縁起書」(美具久留御魂神社文書)にも、

元亀年中、右大臣織田信長、社領悉皆没収し、寺坊を焚き、当社ノ宝物神代ノ巻物縁起書等凡弐百数十品を一時社前ニ焼失セリ(中略)、其後、天正拾弐年六月八日、従一位関白太政大臣豊臣太閤秀吉より田地壱反五畝歩、且、遊佐河内守・柴田勝家・片桐且元、其他ノ諸侯ヨリ田地して四反四畝歩を御寄附あり、以降、徳川三代将軍家光公、御寄附を以大修繕ヲ行、以降、当文化三年迄保存し来リ、蓋し創立よリ千九百四年、神威益々盛ニ、実ニ古来より尊崇すべき有名成式内古社ニ座(御欠カ)候也

と記され、信長の時期に破壊され、秀吉の時期以降に再興されたと伝えられている。

写真232 美具久留御魂神社

 すなわち、この神社も以前から、神仏混淆した宗教活動を行ってきており、その中に正東山神宮寺として一一余の院があり、紀州根来寺の末として隆盛していた。しかし、信長の根来寺攻め以後、寺領・神領は没収され、元亀年間(一五七〇~三年)のころには衰退した。そして、天正期の秀吉の時に社殿の修復が成されたと言う。史料に見える代官伊藤が、伊東祐兵のことであれば、天正一〇年に羽柴秀吉に仕え、翌年八月一日に丹南郡半田村(現大阪狭山市)に五百石を与えられており(『大日本史料』一一の四)、彼が秀吉の代官として再興に当たったこととなる。さらに、秀頼や家光も修繕を加えたと言う。

 また、龍泉村の龍泉寺も、やはり戦国時代に荒廃してしまったが、慶長一三年(一六〇八)一〇月一九日、秀頼の後見であり、家康の吏僚であった片桐且元(市正)が検地奉行を勤めた際、灯明料として高三石を赦免されている。それは、寛文九年(一六六九)に提出された寺記の写によれば、

片桐市正殿御検地奉行田村平兵衛・牧治右衛門御検地之帳面之内、三石引灯明料与御帳に書付被成候、検地年号、慶長十三年十月十九日、牧治右衛門・田村平兵衛

とある(『大阪府史蹟名勝天然記念物』第一冊所収)。このことによって、近世権力が龍泉寺の復興を行っていたことが考えられるのである。

写真233 龍泉寺