特に、家康は、慶長五年(一六〇〇)の関ケ原合戦以後連年のように諸国の寺社に所領の安堵や寄進を行ったり、保護のための禁制を下したりしている。たとえば、河内国では、『寛文朱印留』(史料館叢書)によると、次の二点が記載されている。一つは、
観心寺領
河内国錦部郡観心寺村之内弐拾五石事、任元和三年九月七日・寛永十三年十一月九日両先判之旨、観心寺全収納永不可有相違者也
寛文五年七月十一日
御朱印
とあるように、観心寺(現河内長野市)への朱印状で、もう一つは、同じ年月日のもので、
天野寺(金剛寺)領
河内国錦部郡天野山之内三百七石事、任元和三年九月九日・寛永十三年十一月九日両先判之旨、天野寺全収納永不可有相違者也、仍如件
寛文五年七月十一日
御朱印
とあり、金剛寺(現河内長野市)への朱印状である。ともに、当市域の近隣に位置する寺社の所領が、元和三年(一六一七)九月に徳川秀忠によって安堵され、以後、寛永一三年(一六三六)に家光、そして、寛文五年(一六六五)に家綱によって安堵されてきたことが判明する。