幕府は、このような所領の安堵・寄進などの宗教保護政策を講ずるとともに、慶長の末年から元和の初年にかけて諸寺院に相次いで法度を下し、新たな宗教統制にも乗り出したのである。すなわち、関ケ原合戦の翌年、慶長六年(一六〇一)五月二一日の「高野山寺中法度」の発布をはじめとし、同一三年の比叡山法度から元和二年(一六一六)の久遠寺の法度に至るまで、多くの主要寺院に対して、法度を発布している。
その内容は、学問の奨励と教団の中央集権化であり、あわせて宗教上における朝廷の権力を関東に吸収したことであった。学問の奨励は、中世のような僧侶の武力集団化を戒め、宗義の研鑚に専念させようとしたもので、いわば兵農分離政策の一環である。中央集権化は、各宗派の本山・本寺の権力を高め、末寺の勢力を中央に吸収させる方策で、いわゆる本末制度の確立である。また、天台宗の関東総本山として東叡山寛永寺などを創設したり、浄土宗の芝の増上寺を関東浄土宗十八檀林の筆頭・本山とした。あるいは、京の嵯峨の愛宕神社は火伏せの神として篤く信仰されているが、家康が関ケ原の戦に勝軍法を修して勝利を得たところから、慶長八年江戸の芝桜田山の丘陵に愛宕権現を勧請して社殿を造営している。
この時は、全国の浄土宗・天台宗・真言宗・法相宗・臨済宗・曹洞宗の六宗派や、その有力な寺院を対象にしたのみで、浄土真宗や法華宗などは除かれていたが、その後の寛文五年(一六六五)七月一一日には、これらの諸宗法度の一般的総則とも言うべきものが出された。それは次のようなものである(「御当家令条」(石井良助編『近世法制史料叢書』二、原漢文))。
一、諸宗の法式相乱すべからず、もし不行儀の輩これあるにおいては、きっと沙汰に及ぶべき事
一、一宗の法式を存ぜざるの僧侶は、寺院の住持たるべからざる事
付けたり、新儀を立て奇怪の法を説くべからざる事
一、本末の規式これを乱すべからず、たとへ本寺たりといえども、末寺に対して理不尽の沙汰あるべからざる事
一、檀越の輩、いずれの寺たりといえども、その心得に任すべし、僧侶方相争うべからざる事
一、徒党を結び闘諍を企て、不似合の事業仕るべからざる事
一、国法に背く輩到来の節、その届あるにおいては、異義なくこれを返すべき事
一、寺院仏閣修復の時、美麗に及ばざる事
付けたり、仏閣懈怠なく掃除申し付くべき事
一、寺領一切売買すべからず、ならびに質物に入るべからざる事
一、由緒なき者は、弟子の望ありといえども、猥りに出家せしむべからず、もし拠なき子細これあるにおいては、その所の領主・代官へ相断り、その意に任ずべき事
右の条々、諸宗とも堅くこれを守るべし、この外先判の条数、いよいよ相背くべからず、もし違氾(犯)においては、科の軽重に随いて沙汰すべし、なお下知状に載するものなり
寛文五年七月十一日 (朱印)(家綱)
また、同時に出された下知状は、次のとおりである(同上)。
条々
一、僧侶の衣体、その分限に応じこれを着るべし、ならびに仏事作善の儀式、檀那これを望むといえども、相応に軽く仕るべき事
一、檀方建立由緒これある寺院住職の後は、その檀那の計たるの条、本寺より相談を遂げ、その意に任ずべき事
一、金銀をもって後住の契約をいたすべからざる事
一、在家を借り仏檀を構え利用を求むべからざる事
一、他人はもちろん、親類の好これありといえども、寺院・坊舎に女人抱えおくべからず、ただし有り来たりの妻帯は各別たるべき事
右の条々、これを相守るべし、もし違氾(犯)においては、科の軽重に随いて御沙汰あるべき旨、仰により執達、件のごとし。
寛文五年七月十一日 大和守(久世広之)
美濃守(稲葉正則)
豊後守(阿部忠秋)
雅楽頭(酒井忠秋)
一方、諸神社や神主などについても、同時に、「諸社禰宜(ねぎ)神主法度五ケ条」(『徳川禁令考』)が出されている。それは、
一、諸社の禰宜・神主等、専ら神祇道を学び、その崇敬するところの神体、いよいよこれを存知すべし、有り来りの神事・祭礼、いよいよこれを勤むべし、向後怠慢せしむるにおいては、神職を取り放たるべき事
一、社家の位階前々より伝奏をもって昇進を遂ぐる輩は、いよいよその通りたるべき事
一、無位の社人は白張(しらばり)を着るべし、その外の装束は、吉田の許状をもって着るべき事
一、神領一切売買すべからざる事
附けたり、質物に入るべからざる事
一、神社小破の時、それ相応に常々修理を加うべき事
附けたり、神社は懈怠なく掃除申し付くべき事
寛文五年七月
というものであって、神職の学問の奨励、本山とも言うべき吉田家の権威の確認、神社領の売買の禁止など、その主旨は寺院法度による統制と同様なものである。