なお、これらの宗派について注目すべき幕府の動きとしては、東本願寺の創建、法華宗不受不施派の弾圧、同悲田派の禁止、融通念仏宗の公認がある。秀吉は天正一九年(一五九一)、京都の町の復興計画に関連して、大坂の天満本願寺に京都堀川六条への移転を命じた。これが現在のいわゆる西本願寺となる。
これに対して、秀吉の命で本願寺から隠居していた教如は、なお本山を継承する意図を持っていたようで、文禄五年(一五九六)ごろ、摂津国渡辺の地に坊舎を興し、その洪鐘に「大谷本願寺、文禄五丙申暦林鐘下旬第四日」と刻んだ。この大谷本願寺は慶長三年(一五九八)に大坂の難波の地に移る。そして、秀吉の没後の慶長七年、家康の寄進によって京都東六条に坊舎が建てられ、これが現在のいわゆる東本願寺となる。また、大坂の坊舎が現在の大阪市の難波別院で、先の洪鐘はここに保存されている。こうして権力者にとって大きな脅威であった巨大教団の浄土真宗は二分されることになった。なお、興正寺は、明治に入ってから真宗興正派として一宗の独立を果たして今日に至っているが、東西分派に際しては西本願寺に属し、教団内の有力な中本山であり、その有力末寺の一つが富田林御坊である。