次に不受不施派の弾圧についてみると、法華宗には他宗の者(謗法者)からの施物を受け取らない、他宗の者には施物を施さないという不受不施の規則があったが、これが近世権力との間でしばしば衝突事件を引き起こす原因となった。たとえば、文禄四年(一五九五)、秀吉は京都の方広寺大仏開眼の千僧供養への出仕を諸宗に命じた。これに対して、法華宗としては謗法者の秀吉に不受不施の規則を貫くか、あるいは権力者としての秀吉の命に服するかをめぐって、宗内は激しい議論の場となった。しかし、結局、出仕することに決せざるを得なかった。ところが、最後まで拒否したのが日奥(京の妙覚寺)で、それゆえに、その系統は不受不施派と呼ばれ、出仕を受け入れたものは受不施派と呼ばれることとなった。
秀吉の没後の慶長四年(一五九九)、家康は大坂城に不受不施派の日奥を呼んで受不施派の僧と対論させ、千僧供養に出仕させようとしたが(世に大坂対論と呼ばれる)、なお不受不施を主張した日奥は、翌年、遠流に処せられた。また、慶長一三年には、不受不施派の日経(京の妙満寺)が、家康の宗旨である浄土宗と衝突して江戸城に召喚され、厳しく処断された事件も起こっている。
さらに、寛永七年(一六三〇)になると、この二派の対立が一層激化した。それは、江戸城中での受不施派の日乾(身延の久遠寺)らと不受不施派の日樹(池上の本門寺)らとの対論で、幕府は不受不施義を邪義と断じた(世に身池対論と呼ばれる)。しかし、その後も依然として不受不施派の勢力は衰退しなかったので、ついに幕府は、寛文五年(一六六五)以後、全国的に不受不施派僧の追放に乗り出したのであった。この年、幕府は寺社領の制度を整備し、あらためて朱印状を交付した。この寺領安堵について、不受不施派の中でも意見が分かれ、一部の僧はこれを悲田として受け入れたが(悲田派、あるいは悲田宗)、拒否した僧は流罪などに処せられた。さらに、寛文九年には不受不施派による寺請(てらうけ)が禁止され、幕府の弾圧は一層激しくなっていった。それでもなお、悲田派は不受不施を主張し続けていたため、元禄四年(一六九一)、ついに禁止されてしまった。