キリシタン禁制と宗門改

904 ~ 911

天文一八年(一五四九)七月、イエズス会(耶蘇会)の会士フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を伝えた。その後も宣教師が相次いで渡来し、その結果、全国各地に多数のキリシタン(切支丹・吉利支旦)が生まれた。天正一〇年(一五八二)には、九州の大友・大村・有馬の三氏がローマ法王に少年使節団を派遣したりし、いわゆる切支丹大名も出現した(他に、高山・黒田・蒲生・蜂須賀・小西氏などがいた)。このように、その動きが急激かつ広範なものとなったため、天正一五年六月、秀吉はキリスト教の布教を禁止し、宣教師の国外追放を命じた。

 徳川幕府も、こうしたキリシタン禁制の方針を採り、さらに一層厳しく取り締まった。慶長一七年(一六一二)三月、幕府領にキリシタンの禁制を命じ、金地院崇伝(こんちいんすうでん)とともに寺社の管理にあたっていた京都所司代の板倉勝重に命じて、京都の教会堂を破却させた。さらに翌年一二月には、全国に禁制を下し、大久保忠隣(ただちか)を「追放之総奉行」に任じ、キリシタンを処刑するなど、弾圧を強化していった。その禁制は次のようなものである(『徳川禁令考』)。

 伴天連追放文

 (前略)吉利支丹之徒党、適来日本、非啻渡商船而通資財叨(みだりに)欲弘邪法、惑正宗、以改域中之政、是大禍之萌也、不可不制矣、日本者神国仏国而尊神敬仏、専仁義之道、匡善悪之法(中略)

 慶長十八龍集癸丑臘月日

 御朱印

 ついで、この禁教政策を徹底させるため、キリシタンの追放・摘発や改宗を強要したり、また、キリシタンではないことの証を要求した。それが宗門改(しゅうもんあらため)であり、さらに、寛永一二年(一六三七)に当時の老中であった酒井忠勝が国元の小浜藩に指令し、「きりしたんの宗旨にて之れ無き証拠には、何れも頼み候寺かた之れ有るべく候間、寺の坊主に堅く手形を仕らせ申べく候事」(『小浜市史』藩政史料編一・三)とあるように、後の寺請制への展開となった。

 河内国での事例としては、代官小野長左衛門が志紀郡小山村(現藤井寺市)の庄屋・百姓にあてた覚書きがある(『藤井寺市史』六)。

  覚

一、吉利支丹宗門、宗門として穿鑿堅可仕事

一、男女拾年以来、何方へ奉公并商ニ参候共、宗旨何ニて候や書付可申事

一、他所より男女共ニ於罷帰ハ、只今迄ハ何方ニ罷有所委書付、宗旨せんさく可仕付、兼而之宗旨不知候者郷中ニ不可置事

一、在所宗旨兼而存候もの、他所より縁付ニ来候ハ、本在所之庄屋年寄百姓宗旨ヲ書付、無相違其郷ニ置候様ニと手形取可申事

一、其在所男女共人数何程并家数共ニ帳ニ作り、庄屋肝煎判形仕、此方へも指上ケ、郷中ニも置可申事

 寛永拾六年卯五月十一日       小長左衛門

            庄屋

            百姓中

 このようなキリシタン禁教政策が採られていた時、寛永一四年一〇月、島原半島において土豪・農民らが藩主の圧政と誅求に反対して蜂起した。これに天草のキリシタンが呼応して反乱は拡大し、翌年二月になってようやく鎮圧された。これがいわゆる島原の乱である。その年の九月、この乱をキリシタンの反乱と断定した幕府は、

  覚

一、ばてれんの訴人  銀子二百枚

一、いるまんの訴人  同  百枚

一、きりしたんの訴人 同 五十枚又は三十枚、訴人の品によるべし

右、訴人いたし候輩は、たとへ同じ宗門たりというとも、宗旨をころび申し出ずるにおいては、その咎をゆるし、御褒美御書付のごとく下さるべきの旨、仰せ出さるゝ者なり

 寛永十五年九月十二日

のような、いわゆる「切支丹高札」を作成し各所に掲示し、再度、キリスト教を厳禁することとなったのである(「御当家令条」(石井良助編『近世法制史料叢書』二))。

写真236 キリシタン禁制高札

 さらに、キリシタンの禁制に有効的であったのが、先に少し触れた寺請制である。これは、幕府が隠れキリシタンの摘発を行った際、転宗者(ころび切支丹)に改宗の証として寺院僧侶の判形を取らせた寺請証文を、その後、すべての人にも適用したものである。

 寺請制が一般化したのは、島原の乱後のことで、明暦四年(一六五八)八月、長崎の大村藩の定書(さだめがき)には、

一、何宗によらず、寺手形住持方へ参、所望仕、持可申事

一、寺うけ手形、奉行所に相渡し可申事

と見られる(梅田義彦『日本宗教制度史研究』近世編所収)が、万治二年(一六五九)・寛文二年(一六六二)の両度にわたって幕府法を制定し、法文的にも明確化されていった。一方、幕府は行政機構的にも、寛永一七年、大目付であった井上政重に宗門改を担当させたのを初めとし、続いて寛文四年には、諸藩においても宗門改役を設置し、キリシタン禁制を励行した。富田林市域の藩支配は複雑であるが、たとえば、狭山藩の寺社役としては、安政二年(一八五五)四月の『御家中順席帳』(大阪狭山市史編さん資料目録4『澤田秀雄家文書目録』所収の「御家中順席表」を参照)には、寺社奉行として船越金左衛門・船越仲、宗門役として池田録之丞、明治二年(一八六九)四月の『御家中順席帳』(『狭山町史』二)には、寺社奉行として船越金左衛門・内田直記の名が見え、このような人物が当っていたと判断される。

 次に示すのは、富田林市域に残る寺請状の一例であるが、寺請制が一般化した初期のものとしても興味ある史料であるので、長文にわたるがここに掲載し、解説しておこう(近世Ⅰの八)。

 宗旨御改帳

 (前略)

庄屋

一、源兵衛

  母親

  女房

  沢

  虎

  三蔵

  四郎 未八月十一日ニ生まれ申候

  下人 与作  伊賀国あかの郡比土村者、巳ノ年ゟ未年まて切ニ置申候、宗旨真言宗、則寺請状取申候

  同  長二郎 嬉村二郎左衛門子、戌年ゟ未ノ年まて十年切置申候、宗旨大念仏

  同  三蔵

  同  善吉  彼方村ノ者、宗旨大念仏ニ而御座候、

  同  玉   和州寿命村吉兵衛子、巳ノ年ゟさるノ年まて四年切置申候、宗旨真言宗、則寺請状取申候

  同  すな  和州富田村六右衛門子、宗旨一向宗、則寺請状取申候、巳ノ年一年置申候

  同  たつ  嬉村喜右衛門娘、宗旨大念仏ニ而御座候、巳ノ年一年切ニ置申候

  同  やゝ

  下人 仁蔵

一、宗旨大念仏、拙僧旦那ニ紛無御座候、吉利支丹之義ハ不及申ニ、ころびニ而も無御座候、若訴人有之、此者吉利支丹ニ相究候ハヽ、拙僧同罪可(被)仰付候、其時一言之御詫言仕間敷候、為後日如件

   寛文五年巳三月廿三日

                                          極楽寺

  (中略)

   寺請状之事

一、五年以前丑八月、吉利支丹宗門之義御穿鑿被仰付候故、拙僧手形仕指上候、以後無断絶御吟味被遊候処ニ、就中去年辰霜月廿五日、従御公儀様、急度御改之義被仰出候ニ付而、弥御念被遊候付、将又拙僧書物仕差上候、以来御法度之宗旨、訴人於御座候者罷出可申分候、為後日一札如件

   寛文五年巳三月廿三日

                                  河州石川郡新堂村

                                      本願寺

                                        代 専光寺

 一般的に、寺請状は、個々人が必要とする場合に対して、旦那寺から出されるものであるが、右のものは、錦郡村三二軒について、家主・親・女房・子供、さらに、嫁や養子に出したものから、下人にいたるまで、一人ひとりの「吉利支丹宗門之義御穿鑿」に対する証明を一冊にまとめて提出しているものである。家主および親・女房・子供の宗旨はすべて一向宗で、この錦郡村は一向宗の村と言える。しかし、嫁や養子に出したものや下人の中には大念仏宗も多い。それゆえ、一向宗は本願寺、大念仏宗は極楽寺が寺請しているのである。それ以外にも浄土宗・真言宗のものがあり、それについては、個々にその寺の手形を取っていることをも、併せて確認しているのである。また、寺請印を押すことが出来ることを宗判権と言うが、その権利はすべての寺に認められたものではなかった。この史料では、大念仏宗については極楽寺が判を押し、一向宗については本山の本願寺に代って新堂村の専光寺が寺請状を書いているが、まだこの時点では、専光寺には宗判権が公認されていなかった、と推量される。