幕府の宗教政策の多くは、仏教の積極的・自主的な活動の統制を目的として、さまざまな制度を生み出したが、その根幹となるものは、本末制度と檀家制度である。本末制度は、各宗の本山・本寺を最高位とし、本寺・中本寺・直末寺・孫末寺などの、教団内における寺院の上下統属関係を規定し、本山の教団全体に対する絶対的な支配権をはじめ、上寺の下寺に対する優位を法的に定めたものである。また、檀家制度は、前述したように、寺請制の一般化によって、全住民が主として家単位に特定の寺院(檀那寺)と結びつくことを義務づけたものである。こうして、この両者はあいまって機能し、各本山を頂点とし、全末寺・全住民をピラミッド型の統制機構の中に組み入れたものであった。
本末関係は、本来は師匠と弟子との法流師資の関係から発生したもので、必ずしも上下統属関係を意味したり、その関係が明確であったわけではない。そういう点でいえば、それは前代からも存在してはいたが、それが一般的制度として確立されたのは、寛永九年(一六三二)と元禄五年(一六九二)の両度に、幕府の命で各宗本山の末寺を書き上げさせた、いわゆる末寺帳作製の時期であると言える。この末寺帳作製は、中世以来成立していた従来の本末の系列の中に、近世において、幕府・藩・本山を中心とする強力な統制を目的とした新たな系列も組み入れ、また、不明確であったものをあえて明確にするなど、中世的本末関係を変容させる役割をも有したのである。それゆえ、そこから本末争論が生ずる原因ともなった。この本末争論の結果、基本的には本末関係は固定的なものとされながら、必ずしも江戸時代を通じて本末関係が一定ではなく、変化することもあった。
具体的な本末関係を見ると、判明する範囲内において図式化すれば、次のような図となる。