檀家制度と宗旨人別帳

914 ~ 917

本末制度と並んで重要な幕府の宗教政策は檀家制度であり、寺請制である。それに関係するものが宗旨人別帳で、宗門人別帳・宗門改帳・家別帳・宗門帳などと呼ばれたものである。宗旨人別帳は今の戸籍に相当するもので、土地に関する水帳(検地帳)とともに、戸口に関する基本的な帳簿である。これは、元来はキリシタン禁制以来、宗門改が行われて宗旨改帳が作製されていたが、これと人別帳とが一緒になったものである。宗門改は、毎年寺から、その人がキリシタンではなく檀家であることを証明する寺請状・宗旨手形を出させることであった。

 その寺請状・宗旨手形を集め、整理し帳面化したものが宗旨改帳で、その書式として一定のものはなかったが、おおむね前書きが掲げられている。それは、初期の寛永・寛文のものでは、厳しいキリシタン禁制に重点が置かれている。しかし、ここに見られるように、中期以降のものにあっては、切支丹宗門の禁制は説いているものの、同時に賭博その他の賭け事、傾城町以外で遊女や若衆をおいて売春行為を行うこと、また在家を借りて仏壇を構えて人寄せしたり、座敷談義をしたり、往来の清僧を二〇日以上逗留させることを、一切差し止める旨を規制し誓約させるものとなり、人口調査・僧侶統制・風規統制に重点が移っていったとされる(阪本平一郎「菊屋町宗旨人別帳について」)。

写真237 弘化5年「宗門御改帳」(石田家文書)

 江戸時代後期のものになるが、弘化五年(一八四八)の河州石川郡板持村の「宗門御改帳」(東板持石田家文書)を見てみよう。ここでは、「浄土宗・大念仏宗・西本願寺宗」の寺院を旦那寺とする。まず、前文として、

   覚

一、切支丹宗門之儀、前々被仰出候趣を以無断絶相改宗門、不審成者無御座候、則左之通人別旦那寺之印形取之差上申候事

一、他所ゟ召抱候下男下女等委細相改、宗門疑敷者無御座候、尤銘々寺請状取置之事

一、切支丹転之者類族壱人茂無御座候事

一、惣百姓下人之内ニ而も軽敷仏像仏絵仏書仏具之類所持仕候類、又者葬礼法事等之執行疑敷仕候族有之者、早速御注進可申上候事

一、宗門之儀ニ付少シニ而茂胡乱成者有之候ハヽ、早速御注進可申上候、若隠置外ゟ露顕仕候ハヽ、庄屋・年寄・五人組迄一類共如何様之曲事ニ茂可被仰付候事

と掲げ、一軒ごとの一人ひとりに対して、旦那寺の印形を押している。さらに、

  右之寄

家数 合拾九軒内 高持家持 拾三軒

         高持借家  壱軒

         無高家持  壱軒

         無高借家  四軒

 外ニ庵壱軒、無本寺無旦那

人数 合八拾五人

 内 男四拾五人  内 十八人 十五已下

             三人 六拾以上

   女四拾人   内 十七人 十五已下

             四人 六拾以上

右帳面之人数八拾五人、拙僧旦那人数訳名頭ニ相認候通、相違無御座候、尤人別名頭ニ印形仕差上申候、若宗門之儀ニ付不審成者御座候ハヽ、何方迄も罷出、急度可申披候、拙僧本寺証文之儀者先達而差上置申候、以上

                 本寺京都知恩院末寺

                     河州石川郡毛人谷村

 弘化五申年三月                    西方寺(印)

                             才誉(花押)

設楽八三郎様

    御役所

とあるように、旦那数を総軒数、高持無高・家持借家を分けた軒数、そして、総人数、年代を分けた男女別人数など、細かい統計を示して、それぞれを本寺ともども寺請しているのである。

 「大念仏宗」については、「河州石川郡大ケ塚村大念寺一如」を旦那寺とし、家総数二九軒(他に、この大念寺の末寺の正法寺)、総人数一四一人、また、「西本願寺宗」については、「河州志紀郡大井村誓願寺照道」を旦那寺とし、家総数二軒、総人数九人の分と、「河州錦部郡板持村専念寺」を旦那寺とし、当時、専念寺は無住であったので、山中田村の泉竜寺が預って、家総数一軒、総人数五人の分とを、寺請して報告している。

 最後に、これら三カ寺の寺請を併せて「惣寄」とし、惣高二五八石五斗六升二合、家数五一軒(他に、寺一軒、庵一軒)、人数二四〇人を示し、板持村の役人の百姓代・年寄・庄屋が連名して、大坂鈴木町にあった代官所に提出している。