幕府は、本末制度・檀家制度などにより仏教統制を行うだけではなく、新たに寺院を建立することを厳禁した。すでに元和八年(一六二二)八月二〇日、
一 新寺建立制止事
右、近年為私称寺号院号事、自由至也、向後令厳制、先規御定如斯、依之度々此旨相触畢、若相違之輩新寺建立之儀有之ば、早奉行所へ可申来事
との禁令を出している。しかし、宗旨改の必要性などから檀家制度が全国的に展開し、特に本願寺などの道場の寺院化現象に見られるように、寺院の増加が顕著であった。それゆえ、寛永八年(一六三一)、「公府有禁制創新寺之令」(「大谷本願寺通紀」(『大日本仏教全書』))を出し、さらに、京都所司代の板倉重宗(周防守)は、
急度申遣候、此以前度々申触候、於在々、牢人并たいうす門徒抱置儀は、堅御法度之事に候間、自今以後抱置間敷候、自然油断ニ存隠候は、其一在所可為曲事候、弥々可得其意候、当村々寺庵達之者、此儀能々可申渡候、就中新地に寺を建、寺号院号為似付置候儀、御法度之事候間、是又可申触候者也
寛永八年閏十月廿日 周防(印)
との触書を出し厳禁した(「離宮八幡宮文書」(『大山崎町史』史料編)。この寛永八年は、幕府の新寺建立禁止政策の上で重要な時期であると言われる。さらに、翌年、幕府は諸宗の寺院調査に着手し、各本山に寺院数・本末関係・寺領を書上させ提出させたのであった。それが、前述した、いわゆる寛永の末寺帳と呼ばれ、内閣文庫に伝存する『寺院本末記』一二冊である。
しかし、ここには本願寺などの教団からの末寺帳は見られない。これらの教団では提出そのものが出来ず、その後も新しい寺々の増加は続いたようで、元禄元年(一六八八)四月、改めて「寛永八辛未年起立之寺院ハ古跡、但当辰年ハ五拾八年ニ成申候、申年ヨリ起立之寺院新地ニ成申候」との定書を出した。
すなわち、新寺建立を厳禁した寛永八年を境とし、それまでに創設された寺院を「古跡寺院」と称し、それとは区別して、幕府は、その後の寺院を「新地寺院」と呼び、追認せざるを得なかった。さらに、元禄五年には、これらの新地寺院も「古跡並に被仰付」られることになった。これらの事柄は、なお多くの新寺の建立が続いていた実態があったことを物語っていると言えよう。
新寺建立の増加が顕著なのは、真宗をはじめとする浄土教庶民仏教教団寺院であった。特に真宗寺院の多くは草創時期には名もなき道場であった。中世にその起源を有するものは、郷村・惣村が中心となって開創しており、惣道場と呼ばれて、寺号もなく伽藍などのような大きな構えを持ったものでもなかった。それが近世に入って、近世権力の宗教統制が確立されたことも引き金になり、寺院としての概念に則したものとして位置付けられて行くようになった。その中で、改めて、教団本山から本尊・寺号の下付がなされて、道場の寺院化現象が急激に起こるのである。その際の本尊は、従来の六字の南無阿弥陀仏の名号から、さらに絵像に代わって、近世初期からは続々と木像の阿弥陀如来が下付され、それを木仏と言った。その木仏の裏書が本山の西本願寺一二世の准如のころから授与されていった。その書き留めが「木仏之留」(本願寺史料集成)と言われて現存している。たとえば、その一例をあげると、
河内国古市郡誉田村惣道場専明寺常住物也
慶長十年 三月六日
釈准如―
右之木仏者、妙楽寺門徒河内国古市郡西口村従惣道場、依望之令免之者也
とあるように、近江国伊庭の妙楽寺の門徒が河内国古市郡の誉田・西口村地域に惣道場を構えており、寺院化過程の中で本山から本尊としての認定を受け、専明寺と言う寺号を持つ寺院へと転じていったことを物語っているのである。同日には、河内国丹南郡丹下の明教寺が本尊である木仏の裏書を授与されている。さらに、同月一一日には、喜志村の明尊寺の頓恵が願い出て、
釈准如―
慶長十年乙巳三月十一日
願主明尊寺釈頓恵
右之木仏者、河内国石川郡岐子明尊寺、依望之令免者也
との裏書を授与されている。
今、市域に所在する史料によって、このことを確認すれば、板持村の専念寺に蔵する裏書・添状には、
釈寂如(花押)
宝永七歳庚寅三月九日
木仏尊形 河内国錦部郡板持村惣道場
長福寺改称専念寺物
とある。これは、専念寺と改称した後の時点の覚えとも言うべき写しのようであるが、宝永七年(一七一〇)に西本願寺一四世の寂如が、板持村の惣道場を寺院化し、教団内に明確に位置付けるために、本尊としての木像の阿弥陀如来像を長福寺に下付したことを示すものである。