先に述べたように、融通念仏宗教団は、四六世の大通の代に幕府の公認を得て、一宗の独立を果たした。その動きは、四五世の良観の時代から明確になっていたようである。
言うまでもなく、融通念仏宗は浄土教の一派で大原の良忍を開基とし、一時途絶えた法灯を石清水八幡より再受した法明(一二七九~一三四九)が中興したとされ、一四、五世紀に隆盛し、摂津国の平野に大念仏寺を開き、良忍が阿弥陀如来より直授されたと言われる「十一尊天得如来」を本尊とするものである。その後、門弟達は京の嵯峨の清涼寺を中心に教えを広めたが、独自な性格のゆえか、組織的には必ずしも充分ではなく、大念仏寺も「代々の上人の在所の挽く道場」、つまり鬮にあたった人(禅門)の村へ寺号と本尊の「十一尊天得如来」の画像を移し、そこを本寺とした、いわゆる「引(挽)寺号」の制度をとっていたため、寺基の場所を転々とした。
『大念仏寺四十五代記録並末寺帳』によれば、慶長一八年(一六一三)、道和が三六世を継ぐと、「此上人代迄大念仏寺之堂、代々上人在処挽道場也、元和乙卯平野庄御代官末吉孫左衛門殿ニ寺地申請、摂州平野庄堂建立、以後不移他地」とあるように、元和元年(一六一五)に、平野を定堂として今日に至っている。
その後、寺観を整えるなど、教団として着々と発展していくが、四三世の舜空の代に大原の来迎院の一坊である南之坊が、当方が本山であり平野の大念仏寺は末寺である、と主張する事件が起こった。いわゆる本末争論である。こうした主張が出されるに至るほど、大念仏寺教団の発展が見られたと言うことができよう。この事件は江戸の寺社奉行の扱うところとなり、結局、寛文元年(一六六一)八月六日、時の寺社奉行の板倉阿波守重郷・井上河内守正利の両名が、
城州大原山南之坊ト与摂州平野大念仏寺、就本末異論裁判
一、融通念仏者南之坊開山良忍上人ヨリ相始候段無紛候、雖然中絶之処、法明上人再興、住大念仏寺、至于今、相続之上者六別時弥以大念仏寺為本寺、万事可相守先規事
一、大念仏寺宗門修行天台宗と為、各別之条不可為末寺、雖然良忍相伝之流候之間、大念仏寺住寺替候節ハ南之坊ヘ使僧を遣し、其上南之坊ヨリモ使僧遣し、互可相通事
右之通自今以後可相守之因、茲双方ヘ此証文出置之者也
寛文元年八月六日 寺社奉行 阿波守印
河内守印
との採決文が出され、初めて一宗として公認された(『錦溪山極楽寺史』)。また、延宝五年(一六七七)六月、良観は本山として大坂町奉行所へ教団の末寺帳を提出している。
しかし、教団組織は内部的に必ずしも確立したとは言えず、こうした状況は、天和二年(一六八二)のいわゆる「天台衣・盧山衣争論」となって表面化した。これは若江郡下別時講中の法明寺と錦部郡別時講中の古野村次郎兵衛が、浄土宗の袈裟である盧山衣の着用を主張し浄土宗化を計ったことから始まった。これに対して、四五世で錦部郡新家の出身である良観は、あくまで本山の従来からの天台衣着用を主張し、同年五月二七日、寺社奉行の酒井大和守・秋元摂津守・水野右衛門太夫の連名の採決を得て勝訴した。さらに、貞享元年(一六八四)、良観は大通と協議して、宗門再興の願書を認めて江戸に行き、寺社奉行に提出した。
こうした結果、元禄元年(一六八八)、幕府によって融通念仏宗が再確認され、一宗として確立することとなったのである。この教団確立に当たった良観は、すでに貞享三年二月に亡くなっていたが、それを補佐し継いだのが大通で、彼は元禄二年に四六世住持となったのである。
さらに、いわゆる中本寺に相当するものに、在俗の僧で道場を構えていた禅門の代表者が辻本で、「六別時辻本」と呼ばれた講集団を基盤とするものがある。当初は下別時辻本・八尾別時辻本・十箇郷別時辻本があり、それらは七世の法明の挽く道場で、それぞれ若江郡の法明寺(現大阪市平野区)・東成郡平野庄の良明寺(のち廃寺)・丹南郡の来迎寺(現松原市)となった。さらに元和七年ころに、河内国錦部郡古野の極楽寺(現河内長野市)・石川郡大ケ塚の大念寺(現南河内郡河南町)・高安郡池島の高安寺(のち廃寺)の別時講を加えて六別時となる。