民衆信仰の高まりと統制

926 ~ 929

規制と保護・利用を中心とした幕府の宗教政策によって、寺院や神社は近世社会に定着することができた。しかし、近世民衆は、こうした寺社と深い関わりを持ちながらも、固定化し、創造性を失った宗教、あるいは堕落した宗教者に対して、期待を持つことが出来なくなっていった。この間隙を縫って発生し展開していったのが、いわゆる俗的信仰を有したもろもろの宗教である。また、既成宗教も、こうした庶民の信仰を取り込む動きも見せていくことになる。

 民衆の信仰を獲得した、いわゆる幕府や藩権力の公認を見ない民間宗教の動きの一つとして、愛宕山伏や伊勢神宮に関するものがある。それは、愛宕山伏や伊勢神宮の神号と偽って、諸国で勧進して廻るものが出て、それに多くの民衆が信仰を寄せるようになってきたことを表しているものである。このことに対して、幕府は統制を加える必要に迫られて、次のような布達を相次いで出している。愛宕信仰に対しては、

 愛宕真似山伏之儀ニ付、板倉伊賀守ヘ之奉書

猶以愛宕山伏以御札勧進仕候、無紛様尤ニ候、其外者於此地改可申候、伊勢江茂右之通申越候、以上急度申入候、愛宕勧進之真似山伏多候間、愛宕寺家衆江被仰渡真似山伏無之様存候、恐々謹言

  元和四年午正月九日                       安藤対馬守信重

                                  土井大炊頭勝利

                                  本多上野介純正

                                  酒井雅楽頭世忠

        板倉伊賀守殿

と記す史料がある(「江戸時代宗教法令集」(文部省宗教局編『宗教制度調査資料』))。

 愛宕信仰は、主として火伏せの神としての京の愛宕神社に寄せる信仰で、中世において、仏教との習合によって多くの修験者が愛宕山に登り、その祭神は愛宕権現太郎坊と呼ばれて、天狗と考えられるようになった。さらに、その本地仏は勝軍地蔵とされ、戦国武将に尊崇されていった。先に述べたように、徳川家康もその一人で、一層、全国に広がり、諸方に勧請されていった。近世に入って、民衆の間では竃の神として、これを台所に祭る風習が盛んとなり、講を組織して代参月詣をおこない、護符と櫁を持ち帰り防火を願った。こうした民間信仰の広がりとともに、規制外の行者の進出が見られるようになったと考えられる。

 また、伊勢信仰に関しては、

     伊勢真似勧進ニ付、水谷九左衛門へ奉書

 急度申入候、借伊勢之神号真似勧進之者数多下国仕候、然者山田神官又者寺院ヘ申渡、不謂真似勧進之者退転候様、可被申触之候、恐々謹言

  元和四年午正月廿日                        安藤対馬守信重

                                   土井大炊頭勝利

                                   本多上野介純正

                                   酒井雅楽頭世忠

        水谷九左衛門殿

と記す史料が残っている(同上)。伊勢信仰は言うまでもなく皇室の祖神で同時に国家鎮護の最高の神とされ、古くから武士のみならず僧侶・民衆の参詣も多く、近世には、お伊勢詣でとして全国的に普及し、周期的に集団参宮が行われ、「おかげまいり」と称された。各地の信者を束ねたのは、御師と呼ばれる神官で、各家を廻り、御祓の神札を配布したり、参詣を勧めたりして、信者と師檀関係を結ぶようになった。こうした伊勢信仰の高まりを反映して、伊勢の御師を真似て各地を勧進して廻るものも増加したので、幕府の規制が出されることになったのであろう。